記憶の感触──転落譚《1》

中村邦生|プロフィール

(1) 『三四郎』ではない



フランシス・ベーコンの随想集の23ページに顔を埋めているのだが,読んでいるわけではなく,漫然と活字を眺めている。青年は本を開いたまま,上京の車中で知り 合った女に請われ,ともに過ごした名古屋の宿での不可解な一夜を思い返しているのだ。あなたは度胸のない人ですね,と別れ際に女から言われるような体験である。青年の名は小川三四郎。しかし,今ここで『坊っちゃん』と並ぶ漱石の青春小説の古典について論ずることが目的ではない。
何が気にかかるかと言えば,このときの三四郎の本の読み方である。ある頁を開けてはいるが,心は本を離れ,別な方向へ流れて行く。視線をぼんやり活字に走らせたまま,想いは宙をさ迷っている。
いつしか本が手から滑り,床に落ちて,ふと我に返ったりするのは,誰にでも覚えがあるだろう。ときには意識が薄明に溶け,微睡みの淵に到り,本のばたりと落下する音に驚くこともある。しかし残念ながら,このとき起こるいささか奇異な出来事について知っている者は今のところ皆無に近い。
こうした「奇異」を身をもって体験した私が述べるのであるから間違いない。
「奇異」とは,軽率な言葉かもしれない。日常的な物事の行き交いの中では,どうあっても平凡な事件にすぎないのだから。異変に気づく人間がいないだけで,おそらく日々どこにでも起こり得る出来事だろう。突発的な出来事そのものは実にありふれている一方で,事の「異変」ぶりを思い起こし,その消息を語るとなれば,なかなか容易ではない。記憶の詳細に分け入って語ろうとすればするほど,記憶は弛張し屈曲して行く。それでいて記憶の錯綜が引き寄せる,新たな事態を愉しむ気分も動いているのだから,なおのこと厄介である。
どのような事件が,いつどこで発生したのか。
その基本的な状況の究明が紆余曲折し,一向に解決へ繋がって行かない。探索を開始してから長い歳月が経っているものの,次々と真実らしきものが浮かび上がっては消えて行く。近ごろは偶発的な発見の僥倖を待ち望む弱気に傾きかけることもある。
私は事件の責任を問うことに関心があるのではない。事件の発生の直前に存在していた自らの場所を確認したいと願っているだけである。そこには私の名前も記されているはずだ。名を与えられるほど重要な役割を持った人物ではなくても,私の生きた痕跡は必ずあるだろうと思う。
そうした家郷の追懐にも擬せられる起源への誘惑と欲望を肯定するか否定するか,今のところ検討する余裕はない。もはや動きだした欲望の引き寄せる命運を覚悟するだけのことだ。
もう明らかにすべきだろうか。「明らか」と言っても,確信と疑惑の曖昧な領域に絶えず浮動していることだから,留保を付けての判断を述べるにすぎない。どうやら,私はある小説の作中人物らしいのだ。より正確に言えば,かつてどこかの登場人物の一人だった。今は亡霊のような生ならぬ生を送っていることになろうか。笑いたい者がいれば勝手に笑うがいいが,私は〈架空人物〉の〈ファントム〉として徘徊する〈メタ・ゴースト〉とも言えるのだ。
いずれにせよ,かつて作中にあって,笑ったり,泣いたり,溜め息をついたり,舌打ちをしたり,軽口を言ったり,仲間はずれに拗ねていたり,あるいは乱酔したり,それなりに処を得ていたはずだ。ところが,読み手の不注意で私は足を滑らせ,本の縁から外へ転落してしまったのである。
ほとんどの仲間たちがしてきた(と伝え聞く)ように,急いで脱落したページに向かって攀じ登れば,間に合ったかもしれない。私の場合,滑落の衝撃であまりにも長時間にわたって昏倒していたらしく,気がついたときには,見知らぬ薄暗い人家の隅に捨て置かれていた。そこがX氏の仕事部屋だと知ったのは,かなりの日数が経ってからである。
どういう経緯でX氏の部屋に入り込んだのか判断つきかねたが,転落事故の原因を作った迂闊な読み手はこの人物だと睨み,調べを重ねた。しかし,少しづつ記憶の奥に光を当てて行くにつれて,違った可能性も数多く考えられるようになった。誰もが知るアイロニーだが,記憶を追うことは新たな記憶を生み出す力となって作用し,記憶は更新され増殖して行く。心理学で言う〈エピソード記憶〉は,再構成へ向かう積極的な心的活動によって次々と連想を呼び込み,ほとんど制作に等しい増補と改訂を続けるのだ。
懐かしい小さな場所=ページを見つけない限り,私は誰の目にも留まらず,不可視の姿のままだろう。そこに到り着いたなら,この身は鮮やかに躍動するはずだ。
私が私として手応えを実感できる作中人物に,どうしたら帰還が可能なのか。探索の根拠は記憶の朧気な感触だけだ。〈懐かしさ〉という感情,あるいは充溢した〈しっくり〉感のようなものが息づき,確かな手触りを感じさせる言葉の在り所である。そこでは肌に馴染むような音と香りが大気に漂っているはずだ。
感応の場として共鳴する,そうした細部は容易に逢着し得るものではない。私はあの懐かしい気配に満たされた場所へ行き着く可能性を何度となく疑った。登場人物を目指してあるページから作中に入りこもうとすれば,必然的に作品に軋みや亀裂を生じ,常に批評的臨界が試される。執着心が薄れたときなど,他の登場人物たちの異議がなければ,そのまま作中に居座ってしまおうとさえ思った。詳しく述べる機会があるかどうか見定め難いが,イタロ・カルヴィーノの『木登り男爵』と宮沢賢治の『風の又三郎』がその顕著な例であった。
長居をしたわけではないのに,カルロス・フエンテスの小説では錯乱に等しい事態を招いた。〈しっくり〉した気分などとはまったく逆のおぞましい違和感にもかかわらず,いつまでも留まりたい思いを断ち切るのに苦労した。そういうことならば,中島敦,シャーウッド・アンダスンもある。いや,もっと他にも……。



熟した桃に,そっと手を差し伸べる。その柔らかな繊毛の感触を指先に感じながら,力を抑え,掌で包み込むように桃を掴む。蜜の充溢した重みの,いとおしい手応えを,掌ではなく,全身で感ずるような一瞬。桃を引き寄せると,仄かに風の湧く気配があって,甘い香りがあたりの空気を攪拌する。
懐かしいあの場所の記憶を辿るときの感覚は,この桃を掴むときの手触りに近いと思うことがある。記憶の奥に指を伸ばしていき,堅い芯を蓋う柔らかで,張りのある果肉のようなものを手に取る。力を入れると潰れてしまう,危うい記憶の触感。
具体的な光景として何かが結像しかかる。なぜ桃などを引き合いに出そうとしたのか。桃の影を追うと,ふたたび『三四郎』が思い浮かんだ。
ことによると,私は車中の髭の男だろうか。言うまでもなく,後に再会して「広田先生」と名前を知るまで,三四郎が「水蜜桃」と渾名で呼ぶ人物だ。
汽車が豊橋を出た頃,三四郎は隣り合った髭の男から水蜜桃を貰った。男は食い物の蘊蓄を傾ける。桃は仙果だとか,正岡子規は果物好きで,大きな樽柿を十六個も食ったことがあるだとか,あげくの果てには,ダ・ヴィンチが桃の木に砒素を注射して,実にまで毒が回るかどうか実験したことまで話題にする。この後,ダ・ヴィンチの話にうんざりするのとほぼ同時に名古屋で一夜を過ごした女のことを考えはじめる三四郎の意識の振幅が面白い。「レオナルド,ダ,ヴィンチと云う名を聞いて少し辟易した上に,何だか昨夕の女の事を考え出して,妙に不愉快になったから,謹んで黙ってしまった」とある。この「何だか」の含意に立ち止まりたくなる。わずかに先行したうんざりした気分に,すぐさま思考が付き合うのだ。思考は気分を追認し,気分は思考を追認する。もっとも,わざわざ「辟易」と書くのは,髭の男の口を借りて思わず蘊蓄話を書いてしまった作者の含羞に思えるが。
この髭の男の口の走り方に,私かもしれないという記憶の手触りを微かに感受しないこともないが,食べ終わった桃の核子や皮を新聞紙に包んで汽車の窓から投げ捨てる振る舞いは,明らかに私のものとは違う。公衆道徳に反する行為だからではない。当時は,列車の乗客が窓外に塵芥を捨てるのは普通だったし,三四郎にしても空になった弁当の折り箱を窓から放り出した。
桃となれば,香りへの言及が欲しい。私の記憶には甘い微香が漂っているからだ。ただし,この香りの記憶はいつのものなのか,先の言葉を使えば,記憶の「増補」と「改訂」はどこでなされたのか,それが定かではない。
それでも,甘美な微香は,私が転落した小説のページを突き止める有力な手がかりになるはずだ。
間違いと知りつつ,濃密な〈におい〉に惹かれて迷い込んだウィリアム・フォークナーの『アブサロム,アブサロム!』のような小説も脳裏をよぎる。四十三年間もブラインドを閉めたままの,屍棺の臭いのする幽暗の部屋に,老女が若き日から着つづけてきた喪服に身をかため,鼻をつく悪臭を放ちつつ座っている。アメリカの深南部,暑気に静まりかえった九月の午後,窓の外にはその夏二度目の藤の花の甘い香りが噎せ返るように漂っていた。
同じように,小島信夫の『島』の「異臭」にも踏み迷ったことがある。農夫と漁夫が住んでいるが,どこのいつの時代の島なのか判らない。争いごとのない平和な島を,「見えない闖入者」が襲い出す。それは「そこはかとない,ふわふわしたもの」で,それが「臭い」と最初に気づいたのは,子供たちだった。肥料の臭いではなく,何か鉱物的な臭い。大人たちは,新芽の臭いだとか,潮の臭いだとか,地虫の臭いだとかいうのだが,その異臭は風の凪いだ日など,木陰でも畑でも,耐え難く,息苦しく感じられてくる。大人たちは何かへの恐れを隠すように,「真剣な問題になるわけには行かない」と考え,「笑い話」にしようとするのだ。
こう素描するだけで,物狂おしい気分を掻き立てる〈におい〉が,どこからか漂ってくる気がする。〈におい〉は人を狂わせ,迷妄に陥らせる。
あれは誰の小説であったか,ある神々しい巨大な鮭の頭を食べてしまった若い漁師に,脳に保持された母川の記憶が乗り移った。母なる川はどこなのか戻る手がかりのないまま,幻の水の〈におい〉に駆り立てられる煩悶の日々の末,夜明けの海を沖に向かって泳ぎだす。
稚魚期に刷り込まれた故郷の川の〈におい〉の記憶を蘇らせて,鮭が元の川に回帰するように,私も嗅覚記憶を鮮明にして行けば,あの失われた懐かしいページに戻れるに違いない。しかし〈におい〉の記憶は,再び同じ〈におい〉を嗅がない限り,それとして想起できない。嗅いで初めて,記憶の中の〈におい〉だったことに気づく。いわば忘却の淵を経由して届くのだ。
私の甘い微香の記憶も同じだ。それを運んでくるのは,はたしてどの作中から吹く風だろう。もしかしたら,幻影にすぎないかもしれない。幻影のような亡霊的存在が幻影に拘泥する可笑しさは承知している。私は煩悶を抑え,目を閉じ,鼻孔に神経を集中して息を深く吸い込んだ。
顔つきを想像すれば判るように,わざわざこうした行為に及ぶのは,外目には愚かしく滑稽に見える。そんな自明な滑稽さをことさら思い浮べてしまうと,たちまち意識に明滅するどんな事柄も手応えなく通過してしまう。瞬時,テキストの紙背から次々と〈におい〉にまつわる場景が,立ち上がり,過ぎ去った。
香りを偏愛した詩人の大手拓次が「香料の顔寄せ」で歌う。「記憶をおしのけて白いまぼろしの家をつくる糸杉の香料,/やさしい肌をほのめかして人の心をときめかす鈴蘭の香料」。
嗅覚の作家・尾崎翠の「こほろぎ嬢」は,雨降りの原っぱを散策するが,空気いっぱいに傘の中まで侵入してくる桐の匂いに耐えられず,「鼻孔の奥から,せつかちな鼻息を二つ三つ,続けさまに大気のなかに還した」。そして「この原つぱを出ないかぎり,吸ふ息も吸ふ息も,みな草臥れた桐の花の匂ひがした」のだった。
エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の事件の聾唖の証人は,犯人がアイスクリームの匂いだったことを証言する。それはヴァニラの香りだ。
小川洋子『妊娠カレンダー』の主人公は妊娠中の姉に,〈におい〉は恐ろしいもので,容赦なく犯しにくるから,病院の無菌室で内臓をつるつるになるまで,真水で洗い流したいと言われる。



これらの〈におい〉にまつわる作品が,いつ私の記憶の一隅に入り込んだのか定かではない。しかも,私の懐かしい小さな場所=ページを誘い出すまでに到らず,どれもが素通りしてしまった。この素通りは,何やら思わせぶりで,濃い影を引き摺っている。いつ,どこで,どのように再登場するのか,予断はできないが,少なくとも不意打ちに等しい秘密を携えてこないとも限らない。そのための批評的備えがあるとすれば,何であろうか。
そう考えたとき,もう一つ脳裏を横切る〈におい〉の場景があった。とっさに漱石と察しがついたので,当然のように『それから』の代助が「唇が弁に着くほど近く寄って,強い香を目の眩うまで嗅いだ」白百合の花を予期した。作中で,白百合の香は鈴蘭と対比されて多義的な変転を辿る。この白百合はある植物学者によれば,「山百合」の間違いだと検証されている(塚谷裕一『漱石の白くない白百合』)。百合の芳香の広がる部屋で緊迫した遣り取りをする代助と三千代の姿に,私は記憶の焦点を合わせたが,あっけなく,裏切られてしまった。
落胆したとあえて言うべきだろう。またしても,『三四郎』が呼び戻されたからだ。三四郎が美禰子に縁談の話を確かめる別れの場面である。

女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時,白い手帛を持っていた。鼻のところへ宛てて,三四郎を見ている。手帛を嗅ぐ様子でもある。やがて,その手を不意に延ばした。手帛が三四郎の顔の前へ来た。鋭い香がぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かにいった。三四郎は思わず顔を後へ引いた。ヘリオト ロープの罎。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかに懸かる。
「結婚なさるそうですね」
美禰子は白い手帛を袂に落とした。

この「ヘリオトロープ」は,かつて西洋雑貨屋で美禰子から香水選びの相談を受けた三四郎が,いっこうに判断がつかないまま,いい加減に「これはどうです」と選んだものだ。そうであるからこそ,三四郎の顔の前に「ヘリオトロープ」の沁みたハンカチを差し出す美禰子の振る舞いには,謎めいた印象を受ける。それは三四郎の記憶の中に,残香を置くこと,身の香を相手に残そうとすることに等しい。秘かな苛立ちをぶつけるにしては,かなり酷い行為だ。決めかねた末,無造作に選んだ香水が,やがて三四郎の心に消しがたい愛の記憶の臭跡となって逆流する成り行きは,皮肉の他はない。この場面,女の「不意に延ばした手」と,思わず「後へ引いた」男の顔の対比は,二人の恋愛感情の複雑な交差をも示していよう。
それでも『三四郎』の恋する男女は,互いに感情の危機的崩落の直前で踏み止まっている。『それから』,『門』の三部作の最初の小説として,関係の三者的軋轢への転調の寸前で堪えている印象がある。内部では不穏な気分が凝集しているが,表面は青春の爽気の漲る失恋の物語だ。いわば感情の強い表面張力を持つ小説と言える。危機的な暗転に向かう境目で,関係のドラマの内部の緊張が表面のぎりぎりの張力を維持しているのだ。
しかしながら,この別離の場景が私の脱落したページとは思えない。「ヘリオトロープの罎」も「四丁目」も「迷羊」も記憶の残滓すらないのだし,そもそも拗ね者の私が三四郎であり得るはずはないのだ。
それならば,なぜ繰り返し『三四郎』が私の意識に揺曳するのか。たいして期待感は湧き上がらないにせよ,私の転落地点を突き止める手掛かりが,何かあるのかもしれない。
私は指揮者が楽譜をめくるように,『三四郎』の各ページを追って行く。思い立って,X氏の蔵書から『三四郎』を引き出し,付箋が貼ってあったり,隅を折ってあるページを念入りに調べてみる。文庫が何種類もあり,それぞれ異なった箇所にマークが入っていて,相互に参照する面倒な作業を続けた。折の入ったページにしても,上の隅と下の隅とに別れ,その違いの法則が判らない。菊判の全集もあるが,ほとんど開かれた様子がなく,むしろ文庫版の全集が頻繁に使われている。
作業に厭きだした頃,私はどの本にも共通して黄色のマーカーの入った美禰子の台詞に気づいた。競馬で金をすったのは三四郎だと誤解をした箇所である。

「馬券で中るのは,人の心を中るよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえ中てみようとなさらない呑気な方だのに」

わたしの心には愛の「索引」がついているのに,あなたは気が付きもしない,というわけなのだろう。気が付かないのではなく,むしろ「あなたは度胸がないかたですね」と軽侮されることに共通する「度胸」に関わる問題に違いない。ただし,そうした美禰子のこの棘のある婉曲な言い回しの意味は措くことにする。重要なのは,私の胸の中で「索引」の一語が軽快に弾けた事実だ。この語が刺激となって,作中の固有名を確認し始めるにしたがい,出会いへの強い予感で私は徐々に動悸が早まって行くのを感じた。ついに記憶の探査の針が,『ハムレット』の観劇の場面で大きく振れた。ハムレット?
楽観は禁物だ,と私は警戒気味に呟いた。『ハムレット』が私の転落の現場の目撃証人と言うべき役割を果たしていたとは,にわかに信じ難い。だが,何か秘密が匂ってくる。

(以下次号)■

中村邦生(なかむら・くにお)
1946年,東京都生まれ。作家。大東文化大学文学部教授(英米文学)。『月の川を渡る』,『〈虚言〉の領域』。