エドゥワルド・カッツのバイオ・アート
ホモ・テクニクス,ホモ・ナトゥーラ《1》

高橋透|プロフィール

エドゥワルド・カッツ。1962年,ブラジル生まれ。現在ニューヨーク在住のアーティスト。1980年代から,テレプレゼンス領域で活動を開始。90年代後半になってからは,バイオ・テクノロジーを用いて芸術活動をおこなう。カッツは,バイオ・テクノロジーによるアートを,「バイオ・アート」と名づけている。「バイオ・アート」については,これまでに,「GFPウサギ」(GFP Bunny),「ジェネシス」(Genesis),そしてここで紹介する「第八日目」(The Eighth Day)と名づけられた「トランスジェニック・アート」が発表されている★1。トランスジェニックとは,異種同士の遺伝子を組み換えるバイオ・テクノロジーの技術を指す。カッツがこれまでのところ使用している遺伝子は,「オワンクラゲ(Aequorea victoria)由来の蛋白質★2」であるGFP(Green Fluorescent Protein〔緑蛍光蛋白質〕)を指定する遺伝子である。GFPは青い光に反応して,緑の蛍光色を発する。インターネットの情報によれば,GFPはバイオ実験では,マーカーとして日常的に使用されている。したがって,カッツが言うには,GFPの組み込みは,「いかなる形態の遺伝子実験でもない★3」。

ダナ・ハラウェイは,著名な「サイボーグ宣言」で人間と機械の融合体であるサイボーグという概念を,人間,機械,動物等の領域を融解させるハイブリッド一般にまで拡張しているが,カッツのトランスジェニック生物は,こうしたサイボーグたちなのだ。

「第八日目」は,カッツが2001年に,アリゾナ州立大学の芸術学研究所で発表した「トランスジェニック・アート」だ。第八日目とはもちろん,ヤハウェ神が創造の第七日に休息した後の日のことであり,神あるいは自然の創造物に対して,人工でも自然でもあるようなトランスジェニック生物たちが創られる日を指す。「第八日目」という「作品は,生きているトランスジェニック生命体たちと生物ロボット=バイオボット(biobot) を,直径四フィートの透明なプレクシグラスの円蓋のもとに収納された環境のなかへと収集する★4」。 カッツはこの作品で,彼が「トランスジェニック・エコロジー」と呼ぶ,遺伝子改変生物たちの生態系を提示してみせているのだ。

円蓋の回りには,照明と音響を用いて,水の流れが演出されている。円蓋を観る者たちはこの水の上を歩かねばならない。円蓋のなかは,青色の照明で照らされている。「『第八日目』のなかのトランスジェニック生物はすべて,緑蛍光蛋白質生成のための遺伝子情報を指定する遺伝子のクローニングによって作出されている。その結果,すべての生物が生物発光を通じて遺伝子を発現させる。生物たちの発光を,スタジオの観衆たちは全員,はっきりと観ることができる。『第八日目』のトランスジェニック生物は,GFP植物,GFPアメーバ,GFP魚そしてGFPネズミである。★5」

二十一世紀初頭の現在,遺伝子改変生物は,すでに実験室を抜け出し,巷にあふれ出てきている。「遺伝子組み換え作物は,あちらこちらを飛び回る昆虫によって他家受粉されている。遺伝子組み換え動物は,世界中の農場で見られる。遺伝子組み換え魚と遺伝子組み換え花は,地球上の観賞用品市場で開発されている。いくつかの国では,ワクチンとしての遺伝子組み換え果物の開発がおこなわれている。新たな種類の動物や野菜が開発されつつある。たとえば,ほうれん草の遺伝子を組み込んだ豚,蚕の遺伝子を組み込んだ葡萄の木,蜂や蛾の遺伝子を組み込んだジャガイモ。トウモロコシ畑を車で走っているとき,綿のシャツを着ているとき,あるいは豆乳をグラスで飲んでいるとき,私たちは文化によるこうした変形の複雑さを把握してはいない。★6」

そう,私たちはすでに,様々な多くの遺伝子改変生物たちに,トランスジェニックたちに囲まれて生活しているのだ。好むと好まざるとにかかわらず。すでに,人間の遺伝子改変を射程に入れた,「デザイナー・ベビー」の研究さえもがおこなわれつつある。こうした状況に直面するなかでは,遺伝子改変にたんに反対するだけではもはや不十分なのではないだろうか。私は反対運動が無意味であるとは思っていない。そうした人々が論拠とするのは,食の安全であり,人間の,そして遺伝子改変生物たちの生命の安全である。また,実験動物たちの大量の死(もしくは殺害)が許しがたい蛮行であることは言うまでもない。そしてテクノロジーが,往々にして,人間にとっての有用性と効率性しか計算に入れないことに対しても,決して警戒を怠ってはならない。しかし,これほどまでに遺伝子改変が進むなか,私たちがバイオ・テクノロジーの利便性に預かっていることもたしかである。もはや先端テクノロジーなしには,生は成立しえないのではないだろうか? 今から引き返すことなど,不可能ではないだろうか? それよりはむしろ,テクノロジーと共生する道を探るべきなのではないだろうか? とはいえ,もちろん,肝要なことは,奇形の生命体を創り出すことではなく,カッツが,たとえば彼の創り出したGFPウサギについて確言しているように,産み出されたトランスジェニック生物の「幸福★7」に対して,つまりその生に対して「責任★8」をもつことである。今後,遺伝子改変が不可避的になるとすれば,生に対するこうした責任こそが,取るべき唯一の道ではないだろうか。

上で述べたように,「第八日目」は,実験室で個別的に作出されてきたトランスジェ ニックたちを収集し繁殖させる。「第八日目」は,この意味で,遺伝子生物たちに囲まれた私たちの近未来の環境の縮図である。

「第八日目」では,円蓋の中心に「脳」と名づけられた「バイオボット」が置かれている。バイオボットのなかにはGFPアメーバが入れられており,バイオボットの透明のボディーを通して見ることができる。「第八日目」で用いられたアメーバは,「粘菌」とか「変形菌」と呼ばれる菌類である★9。この菌は,あるときはゆっくりとしたアメーバ運動をし,あるときはコロニーを形成し,キノコのように見える。この菌は,植物と動物の中間種であり,いわば天然の「トランスジェニック」なのである。日本では一年を通じて発生するが,梅雨期から夏季に湿気の比較的多いところに,とくに発生しやすい,と言われている。「バイオボットのボディーは,バイオ・リアクターとして機能し,アメーバのコロニーを育成し培養する。★10」 そして,「アメーバはバイオ・リアクターのなかでネットワークを形成し,個体としての行動を止め,環境の刺激に呼応して,比較的大きな単一の多細胞組織として振舞う★11」。アメーバ生物はかくして機械と一体となって生きているのだ。植物,動物と機械の共生可能性。

バイオボットにはさらに,内部検出ユニットとコンピュータが搭載されている。「内部検出ユニットはアメーバの運動を観測する責任を負い,コンピュータは,アメーバのそうした運動に呼応してバイオボットの脚に命令を下す。★12」すると,バイオボットの六本ある脚は,アメーバの運動に合わせて傾斜・伸張運動や上昇・下降運動をおこなう。バイオボットのこれらの動きは,観察者に「アメーバの活動の視覚的サイン★13」となる。さらに,会場内にいない人間も,バイオボットに装着された小型カメラをウェッブ経由で操作することで,円蓋内の様子を観てとることができる。だから,「バイオボットは,〔『第八日目』の〕環境内において,ウェッブ経由参加者の化身としても機能するのである★14」が,それと同時に,バイオボットの「自立的な上昇・下降ないし傾斜・伸張運動は,ウェッブ参加者に,〔『第八日目』内部の〕環境について新たな像を提供★15」しもするのだ。それゆえ人間は,『第八日目』では,バイオボット内のアメーバに一方通行的に働きかけるのではなく,アメーバの動きによっても自分の見方や視点を左右されることになる。カッツは,この双方向的な現象を「交感性の領域★16」と名づけている。さらに言えば,こうした交感性がウェッブ経由で,つまりヴァーチャル・リアルな形で成立していることに着目すべきであろう。会場内に不在の人間が会場に現前するアメーバに対して現前し,また逆に,会場外に置かれたコンピュータの前には不在のアメーバが,そのコンピュータの前に現前する人間に対して現前しているのだ。アメーバと人間のヴァーチャル・リアルな形での,こうした相互的な交感性の意味するところは何か。これが,カッツのバイオ・アートが取り組んでいる問題にほかならない。というのも,アートがプラトン以来,仮象の領域に生息していることを考えれば,バイオ・アートは,仮象に置かれた生,つまりヴァーチャル・リアルな生を意味することになるから。

上で述べたように,会場に直接来場した者は,円蓋をその外部から眺めることができるのはもちろん,バイオボットに装着した小型カメラの映像を通じて,円蓋内部の様子を観察することもできた。会場ではさらに,円蓋の上方部にカメラが設置されていて,この映像を,会場にはいない者たちが,やはりネット経由で,円蓋はもちろんのこと,それを観察している来場者たちをも含めて,「鳥の眼差し★17」で眺めることができるようになっている。こうしてネット経由の観察者は,円蓋内のトランスジェニック生物たちと人間を同時に観ることで,人間もトランスジェニック生物の「生態系の一部」となっていることを知る。「私たちも,トランスジェニックなのである。★18」私たち自身,デザイナー・ベビーの実現以前にすでに,トランスジェニック化の波に飲み込まれているのであり,カッツの「第八日目」という作品は,こうした「トランスジェニックな生態系の意義について,第一人称の視点から考察する★19」ことを促すのである。

「第八日目」は,ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの『生物から見た世界』を想起させるような仕方で,アメーバの視点,鳥の視点,さらにはトランスジェニックな生態系に対する視点を獲得させ,あたかも万華鏡を覗きこむかのように,これら様々な視点を渉猟させる。「第八日目」という万華鏡を通して開けてくるのは,様々な生命体は多かれ少なかれトランスジェニックであり,ひいては生そのものがハイブリッドを創り出す,という見地であろう。カッツのバイオ・アートはだから,バイオ,つまり生そのものが,創作,すなわちアートであることを告げているのである。ニーチェが言っていたように,「生は芸術家」なのだ。

『慎ましい証人』。ハラウェイはこの著書のなかで,「オンコ・マウス」という,実験用遺伝子改変ネズミを取り上げて,「オンコ・マウスは,わたしのきょうだい。もっと正確に言えば,オスであっても,メスであっても,わたしの妹★20」,と述べているが,カッツの遺伝子組み換え生物に対する態度表明は,ハラウェイのこの発言に呼応するものである。なぜならカッツは次のように言明しているのだから。「トランスジェニック生物をすべて『怪物的』であると決めつける前に,人間は自分の内部を覗き込み,自分たちの『怪物性』と折り合いをつけねばならない。すなわち,自分たち自身のトランスジェニックな状況と」,と★21。

『慎ましい証人』というハラウェイの著書の題名が要請する「慎ましさ」とは,サイボーグのハイブリッド的な生,言いかえればトランスジェニックな生を,それとして認知し,それに対する責任を引き受けていくことを意味している。そしてこの慎ましさは,カッツが要請している「敬意」と「謙虚」をともなった「驚嘆」に通じる。カッツは,「第八日目」のテキストをこう締めくくっている。「『第八日目』が示唆しているのは,『自然的な』ものという空想的な概念は問いの渦中に投ぜられねばならないということ,また,他の種の進化の歴史における人間の役割が(そしてまたその逆の現象も)認識されねばならないということ,そしてそれとともに,私たちが『生』と名づけるこの驚くべき現象に敬意と謙虚さをもって驚嘆すべきであるということなのである」,と★22。

(この項,了)■

[註]
★1 カッツのバイオ・アート「GFPウサギ」と「ジェネシス」については,水声社より近刊予定の拙著『サイボーグ・エシックス』(仮題)で論じているので,そちらをご覧頂ければ幸いである。
★2 http://wako-chem.co.jp/siyaku/info/life/article/gfp_bfp.htm
以下で言及する「インターネット情報」についても同HPを参照した。
★3 Eduardo Kac, The Eighth Day, in Telepresence & Bio Art: Networking Humans, Rabbits & Robots, The University of Michigan Press, Ann Arbor, 2005, p. 273.
★4 Kac, ibid., p. 286.
★5 Kac, ibid., p. 288.
★6 Ibid.
★7 Kac, ibid., p. 264.
★8 Ibid.
★9 Kac, ibid., p. 294, Note 5. 「変形菌」については,『万有百科大事典 19/植物』小学館,1972年,573頁,ならびに以下のHPを参照した。
http://db.gakken.co.jp/jiten/ha/520770.htm
★10 Kac, ibid., p. 290.
★11 Ibid.
★12 Ibid.
★13 Ibid.
★14 Ibid.
★15――Ibid.
★16――Ibid.
★17――Kac, ibid., p. 292.
★18――Ibid.
★19――Ibid.
★20――Donna J. Haraway, Modest_Witness@Second_Millenium, Rout--ledge, New York, 1997, p. 79.
★21――Ibid.
★22――Kac, ibid., p. 292 f.

高橋透(たかはし・とおる)
1963年,東京都生まれ。早稲田大学文学学術院教授(表象・メディア論)。『サイボーグ・エシックス』(近刊)。訳書に,ジョン・D・カプート『デリダとの対話』(共訳)。