ベンヤミンのロシア 《2》

桑野隆|プロフィール

2 ロシアの文化状況

ベンヤミンの「モスクワみやげ」についてもう少し見ていくならば,つぎにとりあげるべきは,アーシャ・ラツィスという存在が占めていた比重からしても,当然,「プロレタリア児童劇場の綱領」(1929)ということになろう。しかしその前に,モスクワから帰った直後にベンヤミンが書いたロシア関係のエッセイにも手短かに触れておきたい(『モスクワ日記』と内容が重なる「モスクワ」〔1927〕は除く)。
1927年の『文学世界』にベンヤミンは,「ロシア作家の政治的グループ分け」(3月),「ロシア映画芸術の現状について」(3月),「オシュカー・シュミッツへの反論」(3月),「グラトコフ『セメント』評」(6月),また『i 10』(1927年,7号)に「ロシアの新しい文学」を発表している。時期はややあとになるが,1930年には『文学世界』に,「ロシアでの演劇の成功はどのような姿をしているか」(1月)も発表している。
これらは,当時のロシアの文学勢力図やプロレタリア文化論争について報告したり,また「フランス革命と異なり,教養や識字率が低い」こと,さらにはまた演劇批評が大衆組織化の手段となっているばかりか批評家一個人よりも討論会や観客アンケートのほうが力をもっていること等々を伝えているが,そこにベンヤミンならではの独自なアプローチが見られるわけではない。ただ,映画に関連して述べられた見解には,その後のベンヤミンの仕事との関連からして,興味深い点がいくつかある。
たとえば,「検閲免除の自由をもっとも多く享受しているのは,ロシアでは文学である。演劇にたいしては監視の眼がはるかにきびしく,映画ではそれがもっときびしい。きびしさのこの度合いは,それぞれの分野における観客大衆の大きさに比例している」と述べているが,こうした点への注目は,たんなる現状報告にとどまるものではけっしてなく,やがて「生産者としての作家」(1934)などで本格的に取り組むことになる「作り手と受け手の関係の変化」の問題へとつながっていくことになろう。またこれは,技術と芸術の関係の問題ともむすびついている。後者に関して言えば,当時のロシアは,テーラー・システムをあまりに高く評価するなど,あらゆる面で技術崇拝が顕著であった。ベンヤミンはすでに12月30日の日記でも,「この国では技術にまつわる一切のことが神聖視されており,技術ほど厳粛に受け止められているものはない」と記していたが,エッセイ「ロシア映画芸術の現状について」では,「技術から諷刺が排除されて」おり,「新生ロシアは,機械に附着するイロニーとか懐疑的意見といったものを感知しえない」と指摘している。(『ベンヤミン著作集 2/複製技術時代の芸術』晶文社)
じつは,この点は,今日から振り返りみると,映画だけの問題でもなければ,文化だけの問題でもなく,ロシア革命の運命そのものの問題でもあった。「ロシア映画がたしかな基盤を獲得したと言えるのは,ボリシェヴィズム社会の諸関係(たんに国家生活の次元だけではない!)が安定し,新しい『社会諷刺劇』が,新鮮なパンチを利かせて,典型的な状況を担いうるにいたったときであろう」というベンヤミンの見解は,まさに本質を衝いている。内部に自己批評装置をもたない体制は,やがて技術を「悪用」し,さらにはまた人間を機械化していくことであろう。だが,とりわけ1920年代前半までのロシアでは,ユートピア熱に浮かれるあまり,「技術から諷刺が排除されている」どころか,マンフォードが『機械の神話』のなかでユートピアの特徴としてあげているような,機械を社会の組織化のモデルとする傾向が顕著であった。
また,映画関係のもうひとつのエッセイ「オシュカー・シュミッツへの反論」は,1927年1月26日の日記に,「夜はシュミッツのポチョムキン論への反論を書く」と記されていたものであるが,ここでもベンヤミンの「決断」的姿勢は判然としている。ベンヤミンは,『戦艦ポチョムキン』について,根本的に新たな現象であるこの映画をブルジョア小説のおなじみの規範にそって「政治的,傾向的」などと批判しても無意味であると言う。「どの芸術作品,どの時代にも政治的傾向が固有であるというのは,自明の理である。なぜなら,政治的傾向は意識の歴史的外形だからである。」
このエッセイでは,芸術と技術の相関関係に関しても,いっそう明確に述べられている。「傾向」の「深い構成が目に見えるのは,芸術史(や芸術作品)の転換期のみで」あるが,じつは,まさに「技術革命こそ,芸術の発達の転換期であり,このとき傾向が表面に浮かびあがってくる。あらゆる新たな技術革命の過程では,隠れた芸術要素から明瞭な要素へといわばみずから転化する。まさにこうしたことが映画において生じているのである」とベンヤミンは強調する。
さらには,技術革命とともに前面に出てきたこの芸術にはもうひとつの特徴もある,という。それは,集団との密接な関係である。

集団を素材とすることによってのみ,映画は,その環境に働きかけながら開始したプリズム状の活動をなしとげられる。『戦艦ポチョムキン』の影響が画期的であるのは,まさに,このことをはじめて明らかにしたからにほかならない。そこでは,大衆の動きがはじめて,構成的でありながらも決して記念碑的ではないような性格を完全に獲得している。……いかなる他の芸術も,こうした集団の動きを伝えることはできなかった……
(Walter Benjamin. Selected Writings, Volume 2, Part 1 1920-1930)

ベンヤミンがこのように『戦艦ポチョムキン』を擁護するさまは,八年後に書き上げられた『複製技術時代の芸術作品』をほうふつさせずにおかない。(ちなみに,『戦艦ポチョムキン』が当時の日本でいかに恐れられていたか,あるいはまた日本がいかに野蛮であったかは,この映画が1926年に横浜港まで到着しながらも税関検閲により上陸を阻止され,ようやく1959年になって自主上映がはじまり,劇場公開となると,なんと1967年であった,ということからも十分に推し量れよう。)


3 児童劇場

さて,見方によっては,これこそ玩具に勝るとも劣らぬモスクワみやげともいえる,「プロレタリア児童劇場の綱領」(邦訳「プロレタリア子ども劇場のプログラム」)に移ろう。
ベンヤミンは,イタリア,ラトビア,そしてロシアでラツィスと会ってきたわけだが,四度目の出会いの場所はドイツであった。1928年11月にラツィスがソ連通商代表部の映画担当官としてベルリンを訪れ,二人はその年の12月から翌年の1月までいっしょに暮らしている。そうしたなかで,ベンヤミンは1929年1月に,「プロレタリア児童劇場の綱領」を書きあげる。もっとも,採用をあてこんでいたベルリンの共産党の担当者からは撥ねつけられてしまうのだが。
ちなみに,これを書きあげた時期はモスクワ滞在から二年近くたっており,はたしてこれが「モスクワみやげ」といえるのかどうか怪しむ向きもあろうが,実際には,この「綱領」は,ベンヤミンがモスクワ滞在時に児童劇場や一般の劇場に出かけた経験と,ラツィスによる児童劇場の実践が相俟って,はじめて成立したものであった。
ラツィスは,革命直後にかかわった児童教育劇場について,つぎのように書いている。

わたしたちは,子どもたちの生来の能力や才能を明るみにだし,彼らに想像力,観察力,聴覚を発達させ,機敏さを身につけさせることを課題とした。……さまざまなテーマで即興劇を試みた。……重要な位置を占めていたのは観察力の訓練であった。子どもたちはさまざまなものを凝視し,それらのあいだに存在したり生じつつある結びつきを明らかにしようとがんばらなければならなかった。……演劇学校で肝心なのは,相互扶助原則であった。子供たちが強制や,わたしたちの恒常的存在を感じているべきでないというのが,わたしたち教師の一致した考えで,わたしたちは子どもたちと同等であるようにふるまっていた。子どもたちには,すべてを自主的に獲得しているといった感覚が生まれていた。

総じて,ラツィスの児童演劇観で目立つのは,「観察力の訓練」と「自主的集団性」,およびそれらに関連しての「即興性」である。ラツィスはメイエルホリドの影響を強く受けていたが,ことに即興性の重視はそうであった。
「演劇の十月(革命)」を率いるメイエルホリドが身体訓練や即興をひときわ高く評価していたことは有名であるが,たとえば,「ドラマトゥルギーと演劇訓練」(1921)には,つぎのようにある。

即興にこそ,真に演劇的であり,真に伝統的であるものが存在するのだ。それは原初の民衆の遊びや踊りが演劇化した源にまでさかのぼる。いうまでもなく,新しい共産主義的ドラマトゥルギーの根源は,自滅したえせ学問のいかがわしい心理的法則に抗してビオメハニカと動力学にもとづく精密な運動法則を対置した,演劇的な身体訓練のなかにこそある。それは――投げ落とされたボールが地面に落下するのと同じ,くつろいだ軽快さと確かさをもって――,すべての〈体験〉がそのプロセスから生まれ出るようなたぐいの運動である。両手をぽんと打ち鳴らすだけで,きわめてむずかしい間投詞〈ああ〉がもっともらしくひびくであろうに,それを無力なためらいに代えている〈体験至上主義者たち〉はむなしく頭をひねくりまわしている。身体にもとづくこの方式は,台本をつくるさいの唯一正しい道を指し示している。すなわち,動きが叫び声を生み,言葉を生むのである。
(『メイエルホリド・ベストセレクション』作品社)

ベンヤミンがモスクワ滞在時に観たメイエルホリドのいくつかの芝居は,まさにこうした原理にのっとったものであり,また,メイエルホリドに案内されて模型を目にし,「おかげで構成主義的に組み立てられた場面の機能がはじめて明確に理解できた」(12月23日)と語っている芝居『堂々たるコキュ』などは,ビオメハニカ(生体力学)の実践の最たるものであった。
ベンヤミンの論考「プロレタリア児童劇場の綱領」には,ラツィスの実践経験だけでなく,こうしたメイエルホリドの演劇観もかなり影響していると見ていいであろう。
また,「ブルジョアジーは,劇場ほど子どもに危険なものはない,と考える。……子どものなかにある未来最強の力が芝居によって呼びさまされるのではないか,という不安の意識がもたげてくるのである」とのくだりなどは(引用は『教育としての遊び』晶文社,から。以下も同様),翻ってみるに,1917年の革命直後にロシアで生じた演劇症候群を思い起こさせる。「革命の日々,闘争から生まれた熱狂が,ロシア民衆のうちに演劇にたいする飽くことを知らぬ渇望を目覚めさせた。」(リペッリーノ)「革命の数年間は,演劇の旗幟の下に過ぎた。」(ピオトロフスキイ)なるほど,未来に向かう勢いが強ければ強いほど,ひとは演劇熱に燃えたつのかもしれない。
またさらにベンヤミンは,プロレタリア児童劇場においては「結果を重視しない」,「道徳的教化はない」,「直接的な教化はない」と書いているが,これはまさにラツィスの実践そのものであった。ラツィスは,「わたしは,創造的論理のために,規範的論理を無視した」と回想している。
もっとも,ベンヤミンはラツィスをそのまま反復しているわけではない。ベンヤミンにおいては,「ブルジョアジーの視界にはけっして登場することのない,子どもという集団をしっかりながめることは,労働者階級の特権である」というように,観客として学ぶのは大人である。「造形や挙措において子どもが示すアクチュアリティは,ほんとうにとどまるところを知らない。」演劇においてもむろん同様である,という。
この視点は,ラツィスには――回想録から推すかぎり――ない。ラツィスはあくまでも,子ども自身の成長や観察力を問題としている。しかし,ベンヤミンは,子ども自身のもつ「観察力」よりも,観客である大人の「観察力」に重点を移している。少なくとも,子ども自身だけでなく,大人にとっての問題にもしている。「観察をはじめると――ここではじめて教育というものがはじまるのだが――子どもの行動や身ぶりのすべてが信号となる。それは,心理学者の好きな,無意識,潜在,抑圧,検閲などの信号というよりは,むしろ,子どもが暮らし,子どもが支配する世界からの信号である」というのである。
そして,この「信号」は,「即興」と切り離せない。

即興が憲法となって,そこからの信号が,信号的身ぶりが浮かびあがる。子ども劇場や劇上演が子どもの身ぶりの総合でなければならないのは,まさに,そういう総合だけが思いがけない一回性を示し,その一回性だけが子どもの身ぶりにとってほんものの空間となるからである。……身ぶりの「瞬間」こそが子ども演技のめざすものだ。うつろいゆく芸術としての劇場,それが子どもの芸術である。

ここにも,メイエルホリドとの並行関係が見られる。メイエルホリドによれば,「役柄を演じている俳優が即興を欠いているのは,その者の成長が止まっていることの証である」。あるいはまた,「創造的喜びの雰囲気に包まれ……内的に喜びを感じているときにのみ,俳優は即興ができる」。すなわち,創造と即興は切りはなせない。
さきに,ベンヤミンのこの「綱領」がドイツ共産党から拒絶されたと述べたが,そのことは,以上の内容からしてすでに納得がいくものと思われるが,さらに決定的なことに,ベンヤミンは,「プロレタリアートが青少年に階級意識を教える場合,(ブルジョアみたいに)イデオロギーという不潔な手段を用いてはならない。そういう手段によって,暗示にかかりやすい子どもの性質につけこんではならない」と述べている。いうなれば,かなりのアナーキズムであり,要するに,「上演は子どもの王国において,カーニヴァルが昔の儀礼においてはたした役割をもっている」というのである。

強者が弱者へと逆転する,古代ローマのサトゥルヌス祭で主人が奴隷にサービスしたように,子ども劇場の上演では,子どもが舞台に立って,注意深い大人を教化し教育する。上演する子どもたちは,演じることによって解放される。かれらは子どもであることを満喫する。子どもたちに繰りこし残高はない。だからあとで,子ども時代を回顧して涙にかきくれることもない。感傷的でない活動がさまたげられることもない。プロレタリア子ども劇場は,子どもの観客にとってもまた,役にたつただひとつの劇場である。

カーニヴァルということになれば,ベンヤミンは1924年に,ラツィスとの共同執筆でエッセイ「ナポリ」を書いているが,そこには,ナポリの祭りをはじめとするカーニヴァル的要素が散見される。ラツィス自身は,もともとカーニヴァルを好んでいた。回想録にも,児童劇場のこんな一日が記されている。

芝居がはねたあと,メーキャップもそのままに,仮面も衣裳もつけたまま,わたしたちは自分たちの建物へと帰途についた。……興奮した観客の群れがついてきた。通りでは,通行人のなかからも合流する者があらわれ,カーニヴァル的行進にわれらが建物までついてきた。まさに祝祭そのものであり,街頭デモンストレーションが「俳優たち」と観客たちにかけがえのない喜びをもたらした。このすばらしい時期を,わたしは演出家になっても何度も思い出した。それは,生きた泉のごとく,わたしの心の糧となった。

実際,ラツィスは,その後も「政治的カーニヴァル」や群集劇を試みている。
ちなみに,テリー・イーグルトンは,ベンヤミンとバフチンの共通性をあげていくなかで,両者がカーニヴァル論を共有していたことも指摘しており,「ベンヤミンは,複数の異種交配を受けられるように過去の権威から解き放たれたイメージを礼賛する。そして,このイメージの多価性への解放は,バフチンにとってはカーニヴァルという名前を持つ。カーニヴァルは記号作用の騒乱の中で,全ての超越的記号表現に揺さぶりをかけ,それらを嘲笑と相対主義の下に晒す」と述べている。(詳しくは,『ワルター・ベンヤミン――革命的批評に向けて』勁草書房,を参照。)
ベンヤミンとバフチンの共通性については,私自身も,『バフチン――〈対話〉そして〈解放の笑い〉』(岩波書店)で指摘したことがあるが,カーニヴァル論を展開したバフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』もまた,ベンヤミンが追い求めていた「危機の瞬間に……歴史の主体の前にあらわれてくる過去のイメージ」をとらえたものであった。バフチンが「祝祭」をとりあげたのは,ひとえに,それが「〈時〉と本質的な関係をもっており……その歴史的発展のすべての段階で,自然と社会と人間の生活における危機的な,変革の瞬間とむすびついている」(バフチン)からにほかならない。
ともあれ,ここまで「解放的」となると,ベンヤミンの児童劇場論は,ドイツであろうがロシアであろうが,党の芸術政策,教育政策,文化政策とは,あまりにかけ離れてくる。そもそも,子どもに教えるのではなく,子どもから学ぼうとしている。ベンヤミンは,すでに1921年に「ドストエフスキイの『白痴』」を書いたときにも,「ドストエフスキイにおいてくりかえしあきらかにされることは,ただ子どもの精神のなかでのみ,民族の生命から出発して,人間的な生命の高貴な発展がなしとげられるということである」と述べてはいたが,この「綱領」でも,子どもが発する信号こそが強調されている。

プロレタリア子ども劇場には力がある。それは,昨今のブルジョア劇場の,えせ革命的な身振りを無効にするような力である。ほんとうに革命的なのは,思想のプロパガンダではない。ここかしこでその種のプロパガンダは,観客にできもしない活動をそそのかす。だが観客が冷静になって思案しはじめるよりもまえに,それは劇場の出口でお払い箱になってしまう。ほんとうに革命的なのは,あとからくる者の秘密の信号である。それは子どもの身ぶりから発せられる。

こうした身ぶり論の前提には,あるいは,「西欧ブルジョアジーは,十九世紀末に自らの身ぶりを決定的に失っていた」(アガンベン『人権の彼方に』以文社)との認識があったのかもしれない。アガンベンはこの問題を,「自らの身ぶりを失った社会は,失ったものを映画においてもう一度我有化し,同時に映画にその喪失を記録する」というふうに展開していくが,ここでのベンヤミンは,この身ぶりを演劇における「即興」と絡めて,「その一回性だけが子どもの身ぶりにとってほんものの空間となる」ことを力説する。
ここから,歴史哲学テーゼ 5「過去の真のイメージは,ちらりとしかあらわれぬ。一回かぎり,さっとひらめくイメージとしてしか過去は捉えられない。認識を可能とする一瞬をのがしたら,もうおしまいなのだ」が想起されたとしても不思議はない。未来も過去も,一回限りかも知れぬ信号を知覚しえてはじめて真に認識される,というわけだ。
こうした身ぶり論は,すでにブレヒトとのつながりを予想させるが,実際,この「プロレタリア児童演劇の綱領」を書きあげた1929年に,ベンヤミンとブレヒトの関係は一挙に緊密なものとなっていく。

(以下次号)■

桑野隆(くわの・たかし)
1947年徳島県生まれ。早稲田大学教育学部教授(ロシア文化・思想)。『未完のポリフォニー』,『バフチンと全体主義』。訳書に,シクロフスキイ他『レーニンの言語』。