記憶の感触──転落譚《2》

中村邦生|プロフィール

(2) 『ハムレット』は事故を目撃したか



『ハムレット』は私の転落した現場の有力な証言の書かもしれない。しかしこの期待感はすぐに疑いの影に覆われてしまうだろう。ひとつの深い溜め息が気分の暗転のきっかけを作ってしまうのに似て,明るい予感は一瞬の懐疑によって逃げ去るのだ。
前回述べたように,私はあれこれ記憶の断片の手触りを確かめているとき,『三四郎』の固有名詞の索引から「ハムレット」に行き当たった。束の間,いくつかの断片は「ハムレット」と組み合わさり,ジグソーパズルのように一つの絵柄を浮かび上がらせたのだ。 索引と言っても,もちろん巻末に具体的な形として付されていたのではない。いわば思考が索引的に動き,たまたま「ハムレット」に行き着いたのである。ぼんやりした記憶が「ハムレット」という言葉との遭遇で感光したのだ。感光した映像はぼやけ不鮮明だが,それでも十分に何事が起こったのか判読できる気がした。
疑いの影を追い出すと際限がなくなる。私は疑念の膨らむ前に,X氏の書棚から『ハムレット』を抜き出し,いつになく慎重に記憶との照合を開始した。
舞台が脳裏に浮かんだ。
これは私の記憶から出てきたものかどうか,そうした疑いを抱くことが一番危険なのだ。疑いはまたたく間に成長し,記憶の光景をすべて荒涼とした地に変えてしまうから。そのことを敢えて強調するのは,すでに疑いが微かに兆しているからに他ならない。恐れるものはないとわざわざ口に出して言うときこそ,怯えの気持ちに衝き動かされているのと同様だ。
舞台には強い光を浴びている一角があって,周囲に薄闇が広がる。客席はなく,まわりの闇から舞台を見つめる視線も並んでいない。どこか小屋のような場所だ。いや,倉庫を改造した劇団の練習場のようでもある。俳優たちのほとんどはジーンズにTシャツという普段着なので,リハーサルの最中らしい。
旅役者たちの黙劇を,ハムレット,国王,王妃らの宮廷人たちが見つめている。オーボエの音とともに,劇中の王と王妃が仲睦まじそうに登場する。王妃は王を花咲く地面に横たえ,寝入ったところで退場し,直後,一人の男が忍び寄って王の耳に毒液を注いで去った。王妃が戻り,国王が死んでいるのを発見して悲嘆の仕草をする。
この黙劇がハムレットの宮廷で起こった王位纂奪を映し出す小さな鏡のようなものなのだが,クローディアスの反応を窺うため,ただちにより大きな鏡が置かれる。口上役の挨拶に続き,一同の前で改めて「ゴンザーガ殺し」の芝居が演じられるのだ。
ここから私の追想は速度を上げ始め,劇中劇を反芻する。王を演じている役者は,長椅子に身を伸ばして読書をしている。やがて午後の気怠い陽気が王を微睡みに誘う。頭が揺れ,胸の上に伏せた本がずり落ちそうになる。庭の隅から男が忍び足で近づき,王の耳に毒草の液を注ぎ込む。死の硬直が全身に及び,読みかけた本が床に落下する。
瞬間,死者に覆い被さる暗黒が,私自身の中に滑り込んできたように思えた。衝撃音と同時に昏倒の感覚が全身を痺れさす。記憶の時間が断裂し,空気が震える。
おそらく事故はこのとき起きたのだろう。俳優が小道具として使っていた本の滑落の弾みで,私はページの縁から床に零れ出てしまったのだ。『ハムレット』の劇中劇「ゴンザーガ殺し」の王を演じている俳優が読んでいた本にこそ,私の帰還すべき懐かしいページ=家郷があるに違いない。本の落下が演出によるものなのか,それとも偶発的な出来事なのか,どちらでもよい。私の事故はある一回性の出来事として生じたはずなのだから。 どのようなタイトルの本で,私はいかなる作中人物なのか。それさえ判れば,私の長い漂蕩の生活も終えることができる。劇中劇の王が午睡の前に読んでいた本として最も可能性のありそうなものは,『ハムレット』の台本であろう。しかしそれは考えられない。なぜなら,私の記憶しているのは小説の叙景的な語りの厚みと描写的な言葉のざわめきであり,戯曲ではないからだ。小説とは言っても,はたして演出家が指示した分厚い古典名作の全集本なのか,役者が読み続けていた近作のベストセラー本なのか,それとも劇団の練習場にたまたま転がっていたミステリーの文庫本なのか。
劇団にしても,まだ健在なのかどうか定かでない。小さなアマチュア劇団だった可能性は大いにあるだろう。学生の演劇サークルだったかもしれない。どこが演じたにせよ,私としては,『ハムレット』が転落現場を証言していると信じたい。というか,これまでいつもそうであったように,私は頭の中へ捩じ込むように信じることで自分を鼓舞しようとしているのだ。
舞台の小道具として用いられた小説の内側にいながら,なぜ外部で演じられている『ハムレット』の芝居の進行が私に判ったのか。零れ落ちてから,舞台の様子を確かめる間もなく昏倒したのであるからなおさらだ。
なるほど作中/作外の記憶力の及ぶ範囲から考えて,理解し難い事態であろう。ここにどうやら誤解があるようだ。
作中人物もまた外の物音に耳を澄ましているのだ。ある小説を読者が読み出すやいなや,いやむしろ読むことによって初めて,私たち登場人物は外部の音に目覚め,読者の声を聞き取れるようになるのである。読者の心中の囁きすら聞こえるときもあるぐらいだ。
この内部=外部としての声の浸透こそ,私たちがときに〈亡霊〉と見做される根拠なのである。ただし,ひとたび読書が終了あるいは中断してしまえば,それらを記憶しておくことは容易ではない。とりわけ,私の例を見れば判るように,テキストの外へ転落する事故に遭遇した者にとって,記憶の復元と整序は淀んだ水を一滴ずつ濾過していくような根気のいる作業となっている。



頭の中へ捩じ込むように信じようとしている? 少し前に私はそう言った。迂闊な言い方だ。ほとんど疑念を表明しているのも同然なのであるから。
実際,そのとおりと言わざるを得ない。流離の運命に伴走する疑心もまた,私を私たらしめている〈亡霊〉の動因なのだ。この名にふさわしい怨み晴らしの荒事をいずれ一度ならず述べなければならない。私は怨念の〈亡者〉に成り変わることもあるのだ。
怨念にまでは到らない途惑い程度の出来事なら頻繁に出会う。例えばほんの数日前でさえ,理不尽な思いで退去しなければならなかった一件がある。
『ボヴァリー夫人』の作中に入り,かつての懐かしい居場所の可能性を求めてあたりを観察したとき,私は,シャルルとの凡庸な生活を嫌悪した凡庸な女エンマが,その凡庸さの集大成のような凡庸な服毒自殺を図って瀕死の状態にある場面に出くわした。死の間際にあって,エンマはシャルルに鏡を求め,しばらく顔に見入ってから,大粒の涙を落として嘆き始める。
この短く挿入された仕草は何とエンマにふさわしいことか,と私は笑いの噴き出しそうになるのを堪えて呟いた。すると死の立合人たちは,私にそろって不審な表情を向けてから,この見知らぬ登場人物に唾を吐きかけ,あげくはシャルルが彼らしからぬ強力で私を打擲し,止むを得ぬとはいえ,物語の外へ追いやった。
シャルルに殴られたことは予想外であったが,今にして思えば,彼がこうした唐突な怒りの振る舞いに及ぶシーンがあったとしたら,その唐突さの故に,ささやかにせよ面白いシャルル像の偏差をもたらしたような気がする。小説に小さな穴を穿つようなものだ。それによって小説の内圧に重大な変化が生じることもある。その現場を振り返って眺めるとき,私は愉快犯のような心境になる。
いずれにせよ,疑心へのあるがままの成り行きと,記憶の逢着した事実に逆らってはいけないという思いとが往来する。その記憶にしても,記憶を追究することが記憶の書き換えを促し加速してしまうという自家撞着は避けられない。そもそも作中人物だと私自身が思うに到った怪しげな自意識はどこから発生したのか。答えようとすれば,自意識の出自を問う自意識が現われ,欝陶しい堂々巡りに陥ることになる。
そのように言うそばから,また記憶の端切れを拾い出してしまい,『三四郎』の『ハムレット』観劇シーンが思い浮かんだ。
三四郎はハムレットの軽快な動きには心動かされるのだが,台詞の日本語の翻訳に関しては,「気が乗らない」と注文をつける。

三四郎はハムレットがもう少し日本人じみた事を云ってくれれば好いと思った。御母さん,それじゃ御父さんに済まないじゃありませんかと云いそうな所で,急にアポロなど引合いに出して,呑気に遣ってしまう。それでいて顔付は親子とも泣き出しそうである。

『ハムレット』の第三幕第四場,ハムレットが母ガートルードの不義を責めるシーンの台詞の翻訳を「呑気」な例として,三四郎は取り上げている。「もう少し日本人じみた事を云ってくれれば好いと思った」とは,要するに「もっと日本語として気が乗るような台詞回しにしてほしい」ということだろう。顔付の真剣さと台詞の「呑気」に矛盾があるのだ。
もとより,「翻訳」は『三四郎』のキーワードである。「男が女を『翻訳』しつづけようとする物語」として刺激的な考察もある(小森陽一の「光のゆくえ」〔集英社文庫版『三四郎』解説〕)。しかし私は今なぜ三四郎の翻訳へのコメントだけに拘るのかと言えば,ここから漱石の翻訳観をめぐり何か記憶の底で動くものがあったからだ。当然,三四郎の意見は広田を通じて考え始めた程度のものだし,ましてや漱石の翻訳観と同等視などできない。しかし,いかにも漱石的な逸話として微笑を誘われる翻訳の話だ。
どの本から知ったことなのか,それとも誰かの会話から聞き及んだことなのか,判然としない。
二十九歳の年,漱石は松山から熊本の第五高等学校に転任した。間もなく漱石の新婚時代がはじまる。しかし二人の間にはしばしば諍いが起こって,「昨日,先生は夫婦喧嘩したから,今日は機嫌が悪いぞ」といった話が学生たちの間に伝わることもあったらしい。 教壇での漱石はきわめて厳格な教師であった。この逸話は機嫌とどう関係するのか判らないが,いささかややこしい「愛」の問題を含意しているのかもしれない。
ある英語テキストを講読していて,“I love you.”という何の変哲もない,高校生には気の抜けるような平易な英文に,なぜか漱石は立ち止まり,学生たちに訊ねた。「私はこの英語をいかなる日本語にするか判るか」と。「私はあなたが好きです」と一学生が答える。漱石は,首を横に振った。別の生徒が答える,「ぼく,君を愛してるんだ」。これも合格ではない。熊本のことだから,「おれ,あんたに惚れちょるばい」と答えた学生もいただろう。とにかく,この「好き」「愛してる」の類の翻訳はすべて却下した。漱石は,「もう少し日本人じみた事を云ってくれれば好いと思った」のかどうか判らないが,おそらくもっと複雑な思念に捉われていたのだろう。学生たちは漱石先生が何を考えているのか見当がつかず,「じゃ,先生,正解をお願いします」と答えを迫った。すると,漱石はにこりともせず,「必ずしも諸君らが真似をすることはないが,私ならば『今宵は,きっときれいな月が出ますね』にする」と答えた。
徹底した同化の翻訳と言うべきものだろう。原文の持つメッセージや言語的効果の等価性を訳文で追究する試みだ。原文が読者に笑いを生み出せば,翻訳の読者にも同じ効果をもたらす工夫の必要があるし,原文があっさりした番茶のようなスタイルなら,いくら上等な日本語を思いついても,香りの異なる玉露訳にしてはならず,あくまでも原文と等価な翻訳文を工夫しなければならない。それに対して異化の翻訳は,異文化の他者性を重視し,文化の距離を解除しない。距離感を無視するのは文化的欺瞞なのだ。読者は異文化のごつごつ感を噛みしめなければならない。こちらはめったに試みられないが,人称代名詞を省略せずに訳した伊丹十三のサロイヤンの翻訳が一例だろうか。
そこで,「“I love you.”=今宵は,きっときれいな月が出ますね」なのだが,漱石の時代の人々は,これをそっと愛を告げるメタ・メッセージとして理解できたのだろうか。そうだとすれば,何と繊細で情致ある愛のコミュニケーションであろう。もどかしいと思うのは,愛とコミュニケーションのいずれにも,センスの錬磨が足りないのだ。この台詞から動悸の早まるのを覚えたり,顔が紅潮してくるのを感じなければいけない。
本当にそうだろうか。漱石の時代でも,この愛のメタ・メッセージを読み取れた者がいるとはとても思えない。ここにあるのは,徹底した同化の翻訳が内側から同化を突き破った奇妙な異化の言葉の場だ。異文化がユーモラスな軋みを発している。
学生たちは納得して頷いたのか,怪訝な顔をして黙り込んだのか,どちらであっただろう。「じゃが,先生,雨降りや嵐の日の場合には,こういう口説き文句は使えんことになりますね」などと茶目っ気のある質問をする学生もいたかもしれない。
漱石にありそうなエピソードだ。それ故に私は思わず身震いする。ここまで言った以上,典拠を明らかにすべきだろうが,私は何か根本的な錯誤を犯して,元の話を改竄しているように思える。原型を潰して改鋳しているのだ。あるいは別人のエピソードが混淆してしまっていることも考えられるだろう。例えば,高等師範学校で英語を教えていた上田敏とか。
「出典」はどこにあるのか,いっこうに記憶は混迷したままだ。
改めて「出典」という字を眺めれば,何と眩い威厳を放っていることか。私は私自身の「出典」を探し求め,この眩いものの正体に行き着かなければならない。そこは人間たちの荒涼たる憎悪の交差する場所かもしれない。たとえ私が予告された殺人事件に深く関与する人物であろうと,懐かしさに眩い思いを抱くだろう。



〈引用体〉。
そんな言葉が思い浮かんだ。私がある小説のあるページから転落した存在だとすれば,引用文のようなもので,元の帰属の場を脱落して漂っている。私は〈引用体〉なのだ。濃密な意味を誇示しているような,もはや希薄になる一方の圧力を欠いた意味しかないような,身体があるような無いような存在。ここでも,またもや私は〈亡霊〉に似ている。引用とは〈亡霊〉の謂なのだろうか。そんな思いが引き寄せたらしく,まわりに人の気配が迫ってきた。姿は見えず,声だけが漂う。
「ハムレットも三四郎も,愚図な煮え切らんやつだ,付き合いたくない連中だね」と囁き声なのに明るい口調だった。
「迷惑きわまる。一人迷う人間がいると,まわりに遅滞が及んで,苛立つばかりだ」 嗄れた声がそう同意する。
「『それから』の代助にしても同じ。どうして,こうも優柔不断な人物ばかり並んでいるのかね」 
「どれも優柔不断の苛立ちの文学さ。とくに『ハムレット』なんか,長居は無用。早くさよならしなくちゃ」
「おたがい,場違いなところへ来てしまったみたいだな」
「それでは,さらば。いつかまた。といっても,もはや二度と声を交わす機会はないと思うが」
どうやら私と同じ運命を生きる〈引用体〉=〈亡霊〉らしい。会いたくない連中だ。『ハムレット』あるいは漱石の小説から抜け出してきて,しばし佇んでいたのだろう。私は早く立ち去るつもりが,ふと耳を傾けてしまい,「優柔不断」という言葉に胸のざわめきを覚えた。少し間延びした切なさで,かつて私自身がそのように言われていた人物に思えてきたのである。
しかし,そうした思いを切り裂く鋭い声が,私の脇を擦り抜け先の二つの声を呼び止めた。 ――ちょっと待った。そこにいるのは誰だ? この世は雑草のはびこる庭だ,浅ましい,くだらぬものばかりがのさばっている。きみたち,どこから来たか知らぬが,無知もはなはだしい。たわごとの行列に,天も憤り,大地も悲しみに震えるほどだ。何と,ハムレットが優柔不断だって? 確かに,考える心というものを四分すると,一つが知恵,残りの三つが臆病なのかもしれないが,そういう言葉に飛びつき,ハムレットは優柔不断な男という虚像に惑わされてはならないのだ。
「誰だって? そう聞かれても,答えられないから困ってるんだ。なるほど,迷いとは縁がなさそうな妙に冷静なやつだね」と嗄れた声が呟いたが,鋭い声は無視して続けた。
――くよくよ思い悩んで逡巡するハムレット像は,ロマン主義が生み出した誤読の産物にすぎない。意志薄弱で,己の疑念に翻弄され,復讐を先延ばしにする弱々しい繊細な青年ハムレットを嫌悪するにせよ,ロマン主義的解釈を基盤にしていることでは同じものだ。 「また,ロマン主義が悪者になっているみたいだね。それって,アカデミックな恫喝によく使われると聞いたよ。あなたは遅れてるね,そんなものはロマン主義が作り出した観念や虚構や制度の歪みにすぎない,とかいった具合にさ」
明るい声の方がなお明るく言葉を挟んだが,こちらも無視された。
??ハムレットはもちろん復讐行動に踏み切れぬ焦燥感を募らせていくが,ハムレットが到達したのは,人間としての尊厳と気高さだ。理性と感情の均衡をとり……。
私は居心地が悪くなり,その冷静で生真面目な声に割って入り,ほぼ次のようなことを言った。
優柔不断を過小評価してはいけない。それは粘り強くてタフなしたたかさを備えたものでもあるのだ。エリザベス一世の「非英雄的」態度について,リットン・ストレイチーが述べていたことを思い出してほしい。

その勝利は英雄的行為によって生じたものではなかった。事態はまさにその逆であった。エリザベスの生涯を支配した大政策は,これ以上ないというほど非英雄的なものだったのである。そして彼女に関する真の歴史は,国政にあたって芝居がかった派手なことが好きな連中への不易の教訓となっている。実際,彼女の成功は,そらっとぼけ,日和見,優柔不断,のろま,吝嗇,といった英雄の持つべからざる資質のお陰なのである。
(『エリザベスとエセックス』)

イギリスはエリザベス朝初期には,強国スペイン,フランスなどを相手に,国際的な難局にあった。それを切り抜けてイギリスに勝利をもたらしたのは,エリザベス一世の慎重とも優柔不断とも言える,その複雑な性格にあったのではないか。「そらっとぼけ,日和見,優柔不断,のろま,吝嗇」と,本来ならばマイナス要素になるはずのものが,むしろ効を奏したという歴史解釈は示唆的だ。ついでに言えば,二十一世紀の極東の島国にとって,優柔不断こそ,「芝居がかった派手なことが好きな連中」の単純な決断など及びもつかぬ,最高の外交的知恵となるだろう。〝国際貢献〟などどこ吹く風とばかり,ぐずぐずと,「そらっとぼけ,日和見,優柔不断」を通していればいいのだ。憲法第九条はその戦略を最高に保証するであろう。
優柔不断は,敗走でもなければ,強さの反対に位置するものでもない。松岡正剛が「フラジャイル」と呼んだ独自の充実なのだ。

 

「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴を持った劇的でピアニッシモな現象なのである。それは,些細でこわれやすく,はかなくて脆弱で,あとずさりするような異質を秘め,大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに,ときに深すぎるほど大胆で,とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく,引きちぎられた断片でしかないようなのに,ときに全体をおびやかし,総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。
(『フラジャイル』)
            

これにハムレットという複雑な人間の姿を重ね合わせると,私は不思議な心のどよめきを覚える。生真面目な声の正体は誰か判らないけれど,「人間としての尊厳と気高さ」として言いたかったことは,これではないか?
返事はない。他の二つの声も消え去ったようだ。「おい,きみたち,まだいるのか」と私は呼んでみた。呼び声は頭骨の中で空ろに反響するだけであった。

(以下次号)■

中村邦生(なかむら・くにお)
1946年,東京都生まれ。作家。大東文化大学文学部教授(英米文学)。『月の川を渡る』,『〈虚言〉の領域』。