オルフェウス的主題《2》

野村喜和夫|プロフィール

番外編


第二回目は,これまで私が比較的親しんできたフランス現代詩に沿ってオルフェウス的主題を追うつもりでいたのだが,八月下旬からアイオワ大学国際創作プログラム(International Writing Program.以下IWPと略す)というところに招聘されてアメリカに滞在するはめになってしまったため,第二回目を展開するのに必要な資料が手元にない。そこで今回は,アイオワ滞在のあれこれを報告しながら,しかし偶然にもこのIWPのなかで,なんと二度もオルフェウス的主題そのものに触れる機会があったので,そのあたりのことも紹介しつつ,この連載の番外編としたい。

アイオワ州はアメリカ中西部,ミシシッピ川西岸にある。日本でいえば青森から北海道ぐらいの緯度だ。別名を“The Tall Corn State”と言うとおり,延々とトウモロコシ畑がつづく大地は,到着した日に空港からハイウェイに出てはじめてその眺めを眼にしたとき,のどかとか雄大とかを通り越して恐怖を感じたほどである。やがて車はハイウェイを降り,こんもりした森のなかに入っていったと思ったら,木立の向こうに大学や病院とおぼしき建物がいくつもみえてきて,そこがアイオワ大学だった。そしていきなり度肝を抜かれたのは,ミシシッピの支流アイオワ川がキャンパスの真ん中を滔々と流れていたことだ。

アイオワ大学を擁するアイオワ・シティは人口五万の典型的な大学都市で,ほかに産業らしき産業もなく,というか大学それ自体が産業という感じである。投宿先として案内されたのは,キャンパス内にあるアイオワ・ハウス・ホテル。ちゃんとフロントもロビーもあり,三カ月間ホテル暮らしができるというのも悪くないなと,すこし上々の気分になりかけた私を,しかしつぎなるショックが打ちのめした。私が着いたのは土曜日の夕刻で,食事はどこで取ったらいいのでしょうとIWPのスタッフのひとりに訊くと,ホテルではなく広いキャンパスの彼方を指さしながら,ダウンタウンに行けばレストランがありますという。ダウンタウン? 歩いて行ってみると,たしかに数ブロック,低層の銀行やらショッピング・センターやらの建物が集まった一帯があり,どうやらそこがダウンタウンらしかった(ちなみにアメリカでダウンタウンといえば,いわゆる下町ではなく,中心の繁華な商業地区のことをいう)。人通りもさしてないメイン・ストリートに立ち,町のシンボル「オールド・キャピトル」(旧アイオワ州議事堂)の向こうに沈む夕陽を眺めながら,なにかとんでもないところに来てしまったのではないかと,それが到着当日の偽らざる気持ちであった。

似たような印象は,ほかの参加者の誰彼も持っただろう。にもかかわらず,毎年このIWPに世界各地から多くの作家,詩人たち(今年はおよそ三十数名)が集まってくるのは,プログラム自体の魅力によるものにほかならない。一九六七年,記念すべき第一回IWPに日本から参加した詩人田村隆一も書いているように,「義務は一切なく,ただそこにいて各国の作家,詩人たちと交流してくれればいいとのこと」,「そのうえお金も出る」。文学があまり読まれなくなったポストモダンの大衆社会のなかで,滅びゆく種にも似た悲哀を味わうことも多い世界各地の作家,詩人たちにとって,こんなありがたい待遇はないだろう。別天地ではないか。多少の食事の不便など,ものの数ではない。

じっさい,滞在二日目から,私もそう思うようになった。雑用や野暮用やあれこれのしがらみから解放され,たっぷりと時間がもてる。書きたいことを書きたいように書くことができるよろこびというものを,私はひさしぶりに取り戻したような気がした。日本を発つ直前,今回IWPに私の名を推していただいた吉増剛造さんが私信に書いてきた,「どうぞ自由に羽を伸ばしてらっしゃい」という言葉が,たんなるはなむけという以上の意味をもって思い起こされてきたのである。

そもそもこのIWPは,もともとは,詩人である故ポール・イングルが担当していたアイオワ大学創作ワークショップから発展したもので,イングルおよびその夫人でもある中国人作家ホァリン・ニエ女史によってその礎が築かれた。以来,世界的にも名を知られるようになり,七〇年代後半には,参加した各国の詩人たちの署名によって,ニエ女史がノーベル平和賞の候補にも上がったほどである。九〇年代になって,財政難から大学側がこのプログラムの打ち切りを決定しかけたこともあったらしいが,IWPはいまも同職にあるクリストファー・メリルをディレクターに迎えて体勢を立て直し,今日に至っている。なお日本からは過去に,先に述べた田村隆一のほかに,吉増剛造,白石かずこ,吉原幸子,中上健次,平出隆,水村美苗,島田雅彦らの各氏が参加している。また聞くところによれば,IWPとリンクしているアイオワ大学創作コースは,全米に数多いその種の学科のなかでも老舗であり,ハーバードのロースクールに入るより難しいと冗談に言われるほど,才能ある作家志望の学生たちが集まってくるとのことだ。

ただし,田村隆一の言う「義務は一切なし」というのはいくらか言葉の綾で,じっさいには期間中いくつかの出番をこなさなければならない。プログラムは大きく三つの柱に分けられている。ひとつは,創作コースの「世界文学のいま」と銘打たれた講座でのプレゼンテーション。ひとつは,市立図書館で行われる一般公開のパネル・ディスカッション(地元テレビで放映もされる)。そしてもうひとつが,IWPのオフィスがある「シャンボー・ハウス」および市内随一の書店「 プレーリー・ライト」で行われるリーディング。週一回,二カ月以上にわたって展開されるその三つの柱のそれぞれどこかに,参加者はすくなくとも三回ラインナップされることになるのである。もちろん英語ができる人にとってはどうということのない「義務」だが,片言程度の私のような場合は,通訳をさがしたり,英訳の原稿を用意しておいたりしなければならない。だが幸運なことに,日本からのもう一人の参加者,英語でショート・ストーリーなどを創作する吉田恭子さんから,いうまでもなく彼女は英語が堪能なので,いろんな局面でサポートをしていただいている。

プログラムが進行していくなかで,個人的なことながら不思議な偶然がかさなった。日本を出発する前に英訳の原稿だけでも作っておこうと,創作コースでのプレゼンテーション用には「詩人にとって母国語とは」というとある講演録を,パネル用には本誌に連載を始めたこの「オルフェウス的主題」の概要を,それぞれ業者に頼んで英訳してもらい,このアイオワの地に携えてきたのだが,冒頭にも書いたように,後者をめぐって,アンドレ・ブルトンならさしづめ「客観的偶然」と呼んだであろうような出来事が起こったのである。

あれはまだ九月半ばの,かなり暑い日の午後遅くではなかったろうか,「テキストとコンテキスト」と題されたIWPのセミナーで,前述のディレクター,クリストファー・メリル(詩人兼批評家で,サッカーに関する著述もあるらしい)が,アメリカ現代詩についてわれわれに話をしてくれたことがあった。そのとき配られた資料のなかに,あの「不確定性の詩学」の詩人ジョン・アシュベリーの難解な詩などと並んで,ノーベル賞詩人ツェスラウ・ミローシュの詩篇があり,そのタイトルがずばり,「オルフェウスとユリディース」だったのだ。窓から差し込む西日の長い光線がちょうど私の額にあたって,なにか特別な光のように思われた。そのうえ,私にもわかるような英語で書かれているではないか。さっそく訳出を試みたので,やや長いが,参考までに本稿の最後に添えておく。冒頭の地獄下りの現代風な設定はともかく,途中までほぼ忠実にオルフェウス神話をなぞりながら,ラスト,「振り返ってはならぬ」という禁を破るにいたるオルフェウスの彷徨の意味が,神話以上に深められている。神話のオルフェウスはユリディースがほんとうに後ろにいるかどうか不安になり,それを確かめるために思わず――いわば反射的に――振り返ってしまうのだが,この詩では,そのまえにすでに神との約束が信じられなくなり,同時に不死をうたう詩の無効を知り,人間の条件を肯うほかないと予感するにいたった詩人が,まさにその絶望を確認するように――ユリディースというよりは死すべき存在である自分自身を確認するように――振り返るのである。

それからまたしばらく日数がたって,秋も深まった十月半ばのある夜,アイオワ川を越えた大学の劇場で,IWPのメンバーたちの作品をもとにした「グローバル・エクスプレス」というパフォーマンスの催しがあり,そのいくつめかの出し物に,バルカン半島のあの不幸な国コソボから来た詩人エディ・シュクリューの戯曲の一部が上演された。そのタイトルがなんと,「ユリディースの帰還」だったのである。どういう経緯があったのか,ユリディースはこの地上へと帰還してしまっている。そして自分で勝手に,「私にさわるな」という禁をつくってオルフェウスを翻弄する。私程度の耳では英語がよく聞き取れず,しかも全編を読んでいないのであまり断定的なことは言えないが,雰囲気はどうやら,ややフェミニズム的な視点からの,オルフェウスとユリディースの立場のカーニバル的逆転,といったところであろうか。

そしてその数日後,パネル・ディスカッションで今度は私が「オルフェウス的主題」の話をした。ディスカッションといっても,言語などの問題があり,じっさいは三?四名のパネリストが週替わりのテーマに沿ってそれぞれ二十分程度の発表をしたのち,あとは質疑を受けるという程度のもので,いちばん盛り上がったテーマは,時代を反映して「イスラムとわれわれ」,ついで,「今日における文学とメディア」であった。私が出席したその日のテーマは「私がこれまでに読んだ最高の本」というもの。みるからに安直そうで,もちろんだからこそそこに組み入れてもらったのだが,蓋を開けてみると,インド人パネリストがあの伝説的なヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』を「最高の本」にあげたため,質疑のときに最高は最悪へとメビウスの帯のように反転し,それぞれが勝手に「これまでに読んだ最悪の本」を言い出してきりがなくなり始めたのである。

さて私。前置きで件の偶然の一致にふれたのはいうまでもないが,本題はこの連載でもいずれ詳しく扱うことになる宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』について話し,カムパネルラを失ってジョバンニがわっと泣き叫ぶあの場面をとくにパセティックに強調して聴衆の感動を呼んだ(ように思われた)。

オルフェウスとユリディース

                     ツェスラウ・ミローシュ


ハデスへの入り口にある歩道の敷石にオルフェウスは立ち,
巻き起こる一陣の風に肩をすぼめた。
風は彼のコートを捲り上げ,霧を渦巻かせ,
木々の葉を揺り動かした。車のヘッドライトに
霧の波がつぎつぎとゆらめくように浮かび上がり,消えてゆく。

オルフェウスは鏡を填め込んだドアの前で立ち止まった,しかしこの
最後の試練に耐えられるだけの力があるかどうか,さだかではなかった。

「あなたはいい人よ」という彼女の言葉が思い出された,
だがほんとうにそうだろうか,抒情詩人というのは
ふつうは――彼も知っているように――冷たい心の持ち主だ。
それは医の道に似ている。芸術における完璧は
そのような非情と引き換えに与えられる。

彼女の愛だけが彼にぬくもりを与え,彼を人間らしくした。
彼女と一緒にいると,自分が違ったふうにみえた。
もう彼女なしではいられないだろう,だが彼女は死んでしまった。

ドアを押して入ってゆくと,いつのまにか迷路を歩いていた。
ついで廊下,エレベーター。鉛色にみえているのは光ではなく,地中の闇だった。
電気仕掛けの犬が騒がしく通り過ぎる。
たくさんの階を,何百何千という階を,彼は降りていった。

寒くなってふと気づくと,どこでもない場所にいた。
数え切れないほどの凍りついた世紀また世紀をくだり,
世代から世代へと人が朽ち果てている灰の跡を踏みながら,
やがて至り着いた王国には,底も果てもないように思われた。

群がる影がオルフェウスを取り囲んだ。
見知った顔もあった。
みずからの血の拍動が感じられた。
われながら罪多き人生だったとつよく思われた。
自分が苦しめた者に出くわすのではないかと恐れたが,
影はもう思い出す力すら失っていて,
無関心な一瞥を投げてよこすだけだった。

身を守るために彼は九弦の竪琴をもっていた。
そうして運んできた地上の音楽によって,
すべての音を沈黙のうちに埋めようとする深淵と向き合うのだ。
音楽の意のままに,夢中になって歌を書き取り,
うっとりと耳を傾けながら,竪琴同様,
みずから音を発する楽器となるのだ。

そのようにして彼は,死の国の支配者が住む宮殿に着いた。
おりしもペルセポネは,裸の枝やいぼいぼの小枝のついた,
真っ黒な梨や林檎の木の立ち枯れている庭にいて,
陰鬱な紫水晶の玉座から耳を傾けていた。

オルフェウスはうたった,朝のまばゆい光と緑なす川を,
薔薇色の夜明けの湯気立つ水面を,彼はまたうたった,
辰砂や洋紅やバーントシェンナや青などからなるとりどりの色について,
大理石の断崖の下の海で泳ぐ喜びについて,
賑やかにざわめく漁港のうえのテラスでの饗宴について,
葡萄酒とオリーブ油とアーモンドと芥子と塩の味について,
ツバメやハヤブサの飛ぶさまについて,
湾のうえのペリカンの堂々たる群れについて,
夏の雨に打たれた一抱えのライラックの香りについて,
かれはさらにうたった,いつも死に抗して言葉を編んだと,
無をたたえて韻を踏んだことなどなかったと。

おまえが彼女を愛しているかどうか――と冥界の妃は言った――私は知らないけれど,
それでもおまえは彼女を救い出しにここに来た。
いいでしょう,彼女を返してあげよう。ただしつぎのことを条件に。
彼女に話しかけないこと,帰途,ただの一度でも,後ろを振り返って彼女がいるかどうか確かめたりしないこと。

こうしてヘルメスによって,ユリディースが外に連れ出されてきた。
もはやその顔にかつての面影はなく,すっかり灰色に褪せていた。
まぶたは睫毛の深いかげりの奥にくぼみ,
ヘルメスの手に引かれたその足取りも
ぎごちなかった。オルフェウスはどんなにか
彼女の名前を呼び,彼女を眠りから覚まそうとしたかったことか。
だが,思いとどまった。あの条件を受け入れた以上は。

出発の準備が整った。彼が先に立ち,それから,すぐにではなく,
ヘルメスのサンダルの音と,経帷子も同然の衣服に覆い包まれた
彼女の足の摺るようなかすかな音がつづいた。
険しい上り坂の道が,トンネルの壁のように
暗がりから浮かび上がっていた。
彼は立ち止まって足音を聞こうとした。だがそのとき
後のふたりも立ち止まり,足音のこだまは消える。
彼がまた歩き始めると,後のふたりの足音がまた聞こえ出す。
ときには近づき,ときにはさらに遠ざかって。
信じる気持ちの下からにわかに疑念が生まれ出て
冷たい蔓草のように彼に纏わりつく。
泣くこともできなかったので,彼はただ嘆いた,
誰しも死者の復活を願う,だがそれはできない相談なのだ,
いまや自分もひとしなみに死すべき人間なのだから。
竪琴からもう音は生まれず,それでも彼は身ひとつの状態で夢みた。
信じる気持ちを持たなければと思いながら,だがもうできなかった。
どんなに時間をかけてもその気持ちが戻ることはなかっただろう,
夢うつつに力なく自分の足音を数えるばかりなのだ。

日の光が射してきた。地下からの出口が暗闇のなかで眼のように光る,
その下に岩のかたちがぼんやりとみえてきた。
予期された通りのことが起きた。オルフェウスが振り返ると
背後の道には誰もいなかった。

太陽。空。そして空に浮かぶ白い雲。
いまようやく,ものみなが彼に向かって泣き叫んでいた。ユリディース!
おまえなしでどうしたら生きてゆけるというのか,
だが,草のいい香りがするだけ,蜂のぶんぶん唸る音が聞こえるだけだった。
日に暖められた地上に頬をつけて,彼は眠りに落ちてゆくのを感じた。

(以下次号)■

野村喜和夫(のむら・きわお)
1951年,埼玉県生まれ。詩人。『風の配分』,詩集『川萎え』。