マイブリッジ,押井,そしてカッツ
ホモ・テクニクス,ホモ・ナトゥーラ《2》

高橋透|プロフィール

まずは,先月号で紹介したバイオ・アーティスト,エドゥワルド・カッツが現在進行させつつある,最新の作品「ムーヴ 36」を取り上げることから始めよう。「ムーヴ 36」は,二〇〇四年に展示を開始し,現在もパリで展示中である。「ムーヴ 36」は,字義通りにはチェスの用語で第三十六手目を指すが,ここではそれは,一九九七年に,チェスの世界的名手ガリル・カスパロフが,「ディープ・ブルー」と呼ばれるコンピュータと対戦した際に,カスパロフによれば,決定的な一手となった第三十六手目を示唆している。手っ取り早く言えば,カッツは,この第三十六手を,機械に対する人間の優位性の主張への一撃とみなす。カッツは,まず,土(黒色)と砂(白色)から成るチェスボードを設え,第三十六手の打たれた場所に植物を置く。(他の盤目には駒は置かれていない。)この植物には,カッツが「デカルト遺伝子」と名づけたDNAが組み込まれている。デカルト遺伝子は,デカルトの「我思う,ゆえに我あり」を,ASCIIコードによって変換し,そうして得られたバイナリー・コードを,さらに,DNA塩基に置き換えることによって作成された。「〔この〕遺伝子変更によって,くだんの植物の葉は,カールする。野生では,その葉は平たいが。……かくして観衆は,カールが形成され捩れた,まさにその場所において,肉眼で,『デカルト遺伝子』の発現を見てとることができるのだ。」

チェスボードを挟んだ二つの側面壁には,さらに,四角形をした大きなスクリーンが設置されている。この大きなスクリーンは,カスパロフとディープ・ブルーという,そこには「不在の,二名のチェス対局者を想起させる」ためのものである。そして,その大きなスクリーンは,さらに,いくつもの小さな四角形のビデオ・スクリーンに分割されていて,各々のスクリーンには異なったビデオが映写されている。これらのビデオは,「抽象的な有機体存在や有機体形態」が活動しているさまを映し出している。これらのビデオは,カスパロフとディープ・ブルーの象徴なのだから,そこに映写された抽象的な有機体は,人間と機械の融合を表現していることになる。そして二つの側面壁を挟んで中央には,遺伝子を改変された植物,すなわち「デカルト遺伝子」という人間の理性,ならびにコンピュータの象徴と植物の融合体が位置しているのだ。

「人間が機械に負けたまさにその場所に根を置いた植物における『デカルト遺伝子』の存在は,人類,生命に類似した性質を備えた生命のない物体,そしてデジタル情報を変換する生きた有機体のあいだの希薄な境界を提示しているのである。」「ムーヴ 36」はかくして,人間,コンピュータ,そして植物という生命体が,互いに入れ子状に貫入し合い,融合し合っていく世界の,言いかえれば,人間/人間以外の生命体/機械のハイブリッド化という近未来の世界の縮図なのだ。

デカルトはある書簡で,「動物がわれわれよりも多くのことを行うのをわたしは十分に知っていますが……ひとりでに時計のような仕掛けで行動しているのです」と語っていた。デカルトにとっては,だから,動物と機械は同レベルの存在であり,人間だけが,思考する存在として,動物,機械と一線を画する存在であった。しかし,「デカルト遺伝子」は,いわば自己脱構築的な作用を及ぼし,人間という存在から特権性を奪取し,人間を動物と機械とのあいだで形成される一連の入れ子状の連鎖に書き込み直すのである。


人間/人間以外の生命体/機械のハイブリッド化は,いつごろから始まったのだろうか。

エドゥワード・マイブリッジは,周知のように,『人間の動き』,『動物の動き』と題された写真集を作成し,映画の原型を作った十九世紀の写真家だ。これらの写真集には,人間や動物の動きが連続写真の様態で収められている。今でこそ,何の変哲もないスローモーションの連続写真だが,マイブリッジは確信をもって,この写真集が,「芸術家と科学者にとって争う余地のない価値を有している」と宣言している。しかし,この写真集が出版されたときの世間の反応は,当時ロンドンで発行されていた『ビルダー』紙が明確に指摘しているように,マイブリッジの「動物行動観察器 (zoopraxiscope)」によって証明された,人間や動物の動きは「視覚的には真実」であるとしても,「芸術的には必ずしも真理ではない」というものだった。マイブリッジの「ストップ・モーション写真は,動物を,人間の眼が決して観ることのできない体勢において示した。だが,芸術家はむしろ,可視的な感覚物を扱うべきではないのか」というわけだ。

フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは,電気羊の夢を見るか?』を想起させる,『電気動物』という題名の書物のなかで,アキラ・ミズタ=リピットは,マイブリッジを評して,こう記している。「マイブリッジの作品において顕著なこと,つまりこの作品を観る者を直ちに捉えるのは,動物と運動というテーマが関係づけられる,飽くことのない,脅迫観念的な仕方である。まるで動物という形姿はつねに,運動そのものの象徴という役割を担うように運命づけられている,とでもいったように。」リピットはさらに続けて,こう言っている。「マイブリッジは,動物のあらゆる仕草,ポーズ,筋肉の騒乱,解剖学上の変移をあれほどの執拗さをもって把捉し記録することによって,新しい都市環境から動物が今にも消失していこうとしていることに対して抗っているかのように思われる」と。

十九世紀後半の西欧世界で,次第に工業化・都市化が進行していくなかで,たとえば荷運びの馬やロバは,機械による交通手段に取って代わられ,動物たちは都市の風景から姿を消していく。エッセイストのジョン・バージャーが言う,動物の「周縁」化が徐々に頭をもたげてくるのだ。生身の,自然の動物たちは消滅してしまう。そして,それに代わって登場するのが,マイブリッジの連続写真の動物たち,つまりもはや生身ではなく,テクノロジーを媒介にして記録された動物たちである。連続写真の動物たちは,発達するテクノロジーのために,生身であることを止め,いわば「死」を迎えるわけだが,しかし,連続写真というテクノロジーによって救済され,ふたたび「生」を授けられるのである。


ところで,現代世界においては,都市化によって失われつつあるのは,もはや動物の生身の姿にとどまらない。そうした喪失は,言うまでもなく,徹頭徹尾人工的な空間に生息せざるをえない,人間の身体の生身性,あるいは人間の元来の動物性にまで及びつつある。この傾向は,とどまるところを知らない。昨年公開された,押井守監督作品『イノセンス』は,サイボーグをテーマにしたアニメである。サイボーグ,つまり生身の身体と機械化された身体とのハイブリッド。サイボーグとは,人工と自然とが交錯する処であり,押井の言葉を借りれば,人工物としての「人形」と自然物としての「動物」とが交じり合う場である。

『イノセンス』(そしてその前作『アヴァロン』)には,犬,つまりバセット犬が登場する。押井が犬好きであることは知られているようだが,彼のアニメにおける犬ないし動物の役割について言及したものはあまり存在しないように思われる。押井自身の語るところによれば,「犬(動物)と人形の両方が出てくるからドラマたり得る……だからといって失われた人間の身体がどうにかなるわけじゃない,あくまでも〔犬は身体の〕代替物なんです。その限りで言えば,僕は犬の向こうに,もっと違うものもあるんじゃないかって気がする。単なる自分の失われた身体の代替物というだけにとどまらない何か。その背後にある,膨大な無意識の世界。それもまた人間の可能性の一つじゃないかって思うんです」。動物は無意識の象徴であるというのだが,では,これをアニメが表現するというのは,どういうことなのだろうか。

『複製技術時代の芸術作品』で,映画の意義について,ヴァルター・ベンヤミンが語るところによれば,「視覚における無意識的なものは,カメラによってはじめて私たちに知られる。それは衝動における無意識的なものが,精神分析によってはじめて私たちに知られるのと同様である」。これを受けてリピットはこう言っている。「動物と写真は,無意識的なものの類似したヴァージョンとみなしうる。人は,動物を自然における無意識的なものの一ヴァージョンとして,そして写真をテクノロジー的無意識と解釈することができる」と。無意識を映し出す写真について言えることは,やはり無意識を映し出す映画についても言えるであろう。そうだとすれば,写真のみならず,映画も,動物と同様に,無意識的なものへの通路であることになる。こうして,伝統的には相対立するものとみなされてきた,「冷たい」機械と「温かい」動物とは,無意識の表出という観点においては,同じものであることが知られるのである。

押井自身は,「アニメの本質」についてこう述べている。「別個の次元を重ね合わせることによって,世界を生成し,物語を胚胎する,その形式こそがアニメの本質だと,そうも言えるでしょう」と。アニメは,少なくとも押井のそれは,したがって,複数のセル画の重ね合わせによって,通常とは異なった,新たな世界を紡ぎ出すことであり,その意味で,通常の意識には認識されない,無意識の世界を描出することに等しい。押井においてアニメという形式が,このような無意識の世界の描出を意味するのであれば,そのアニメが,犬という動物において,「その背後にある,膨大な無意識の世界」を描き出すということを内容とするのは必然的である。押井においては,アニメというテクノロジー装置は,無意識を表出するのであり,そのかぎりで,それは,犬という動物を,無意識の象徴として描き出すことになるのである。

写真,映画,アニメは,だから,動物性とテクノロジーとがともに,そこに根を下ろしている無意識の領域を表現する媒体なのである。

最後に。想い起こして欲しいが,マイブリッジでは,消失していくのは「動物」たちであった。ところが,カッツの「ムーヴ 36」では,これとは反対に,人間が消滅し,それと同時に,機械も姿を消す。それら二者は,「幻影としてのプレーヤー」としてチェスボードを囲むのである。チェスボードに残されているのは,「デカルト遺伝子」を組み込まれた植物だけである。「この展示は,生きているもの(人間,人間以外の動物たち)と生きていないもの(機械,ネットワーク)とのあいだの境界において,私が進行させつつある調停を継続するものである」とカッツは言う。「デカルト遺伝子」を組み込まれた植物は,したがって,生命体と非生命体の融合プロセスの象徴として存在しているのだ。生命体と非生命体とは,すなわち動物性とテクノロジーのことにほかならない。写真,映画,アニメという形態でこれまで進行してきた,動物性とテクノロジーの無意識レベルでの融合は,カッツにおいては,生命体と非生命体の融合プロセスへと発展するのである。無意識と呼ばれたものは,生命体と非生命体を巻き込む融合のプロセスなのだ。カッツは,このような融合のプロセスを,「現実の生命と進化の詩学を探求する彫塑的なプロセス」と名づけている。そして,「ムーヴ 36」が示しているように,この融合プロセスにおいて,人間は,(そして機械も),単独の存在としては消失し不在となる。とはいえ,単独の人間のこのような不在化は「人間の死」を意味するのではない。それが意味しているのはむしろ,人間は生命体と非生命体の融合プロセスのなかに現れるひとつの浮島として存在せねばならない,ということにほかならない。このようにして「ムーヴ 36」は,かつてより欲望されてきた,動物性とテクノロジーの融合のなかに人間を書き込むのである。

(この項,了)■

[註]
★1 カッツのHP( http://www.ekac.org/ )を参照。
★2 Eduardo Kac, Telepresence & Bio Art, The University of Michigan Press, Ann Arbor, 2005, p. 295.
★3 Frederic Lebas, Eduardo Kac, Move 36, http://www.ekac.org/parisart2005.html
★4 Kac, op. cit., p. 296 f.
★5 ニューカッスル侯宛書簡,一六四六年十一月二十三日付。デカルト『方法序説』谷川多佳子訳,岩波書店,二〇〇〇年,一二三頁所収。(Descartes: Correspondance, publiee avec une introduction et des notes par Charles Adam et Gerard Milhaud, Tome VII, Kraus Reprint, 1983, p. 227.)
★6 Muybridge's Complete human and Animal Locomotion, Dover Publications, Inc., New York, 1979, Vol. III, p. 1585.
★7 以上,Introduction to the Dover Edition by Antia Ventura Mozley, in Ibid., Vol. I, p. xxiv.
★8 Ibid.
★9 Akira Mizuta Lippit, Electric Animal: Toward a Rhetoric of Wildlife, University of Minnesota Press, Minneapolis, 2000, p. 185.
★10 Ibid.
★11 ジョン・バージャー『見るということ』飯沢耕太郎監修,笠原美智子訳,筑摩書房,二〇〇五年,四〇頁。
★12 押井守『イノセンス創作ノート』徳間書店,二〇〇四年,三二三頁。
★13 『ベンヤミン・コレクション I』浅井健二郎編訳,筑摩書房,六二〇頁。
★14 Lippit, op. cit., p. 177.
★15――押井,前掲書,九一頁。
★16――Kac, op. cit., p. 297.
★17――Ibid.
★18――Ibid.

高橋透(たかはし・とおる)
1963年,東京都生まれ。早稲田大学文学学術院教授(表象・メディア論)。『サイボーグ・エシックス』(近刊)。訳書に,ジョン・D・カプート『デリダとの対話』(共訳)。