8月2012のアーカイヴ

8月の新刊:『わが友ピエロ』

2012年 8月 20日

レーモン・クノー・コレクション5

rqefbc8fe3828fe3818ce58f8be38394e382a8e383ad_coverわが友ピエロ

菅野昭正訳
4/6判上製272頁/定価2500円+税
ISBN978-4-89176-865-2  C0397  8月27日頃発売!




陰謀? 事故? 《ユニ・パーク》で巻き起こる謎の事件

遊園地《ユニ・パーク》で働くこととなった青年ピエロ。
人はいいがどじばかり踏んでいる彼は、ひっそりと
《ユニ・パーク》に隣接し、謎の王国ポルデーヴの王子が
まつられているという礼拝堂の主と知り合いになる。
そんななか、《ユニ・パーク》では、ある事件が巻き起こり……。
『ルイユから遠くはなれて』『人生の日曜日』とともに
「知恵の三部作」と呼ばれ、アルベール・カミュが称賛した、
「不滅の奇蹟の物語」。

日本ウリポ史上、最大の新シリーズ、第8回配本!


*第8回配本に予定しておりました『文体練習』につきましては、
発売を9月下旬に延期させていただくこととなりました。
楽しみにお待ちくださっているお客様を始め関係各位には
多大なご迷惑をお掛けいたしますこと心よりお詫び申し上げます。

*いつもすてきな書籍を刊行されている 月曜社 さんより、
クノーの批評的エッセイ集『棒・数字・文字』が好評発売中です。
訳者は、『最後の日々』や、やはり月曜社さんから刊行されている
『オディール』の翻訳でしられている宮川明子さん。
こちらはクノーのエッセイストとしての代表作で、
その奇天烈かつ独創的な内容については、
すでに ウラゲツ☆ブログ さんでも紹介済みですね。
おもわず書棚に飾っておきたくなるような瀟酒な造本で、
クノーの魅力がいっそう広がることまちがいなし、の1冊、
ぜひ、本コレクションとあわせてご購読ください!


 

8月の新刊:『精神病院と社会のはざまで』

2012年 8月 10日

seishinbyoin_cover精神病院と社会のはざまで——分析的実践と社会的実践の交差路

フェッリックス・ガタリ/杉村昌昭訳
四六判上製/本文192ページ+別丁図版8ページ/定価2500円+税
ISBN978-4-89176-916-1 C0010 8月20日頃発売!




精神の領土へ!
没後20年を経て、いまなお色褪せない思想とその実践


ギリシャのレロス島から、フランスのラボルド精神病院へ——。
稀代の哲学者の原点を知るための、もっともコンパクトなガイダンス。
ガタリ自身の日記、盟友ジャン・ウリによる追悼文、
貴重な写真などをモンタージュする。

【関連書】
カフカの夢分析 F・ガタリ/杉村昌昭訳 1800円+税
アンチ・オイディプスの使用マニュアル S・ナドー/信友建志訳 3800円+税
国家に抗する社会 P・クラストル/渡辺公三訳 3500円+税

 

編集部から:『ナチスのキッチン』藤原辰史さんインタビュー

2012年 8月 6日

nazi_kitchen小社刊、藤原辰史著『ナチスのキッチン——「食べること」の環境史』は、おかげをもちまして、各紙誌で好評をいただいております。先にご紹介した 各新聞、ウェブサイトのほか、7月29日付の朝日新聞朝刊では、作家の 出久根達郎さん が書評してくださいました。日本の現実とも重ねてとらえた貴重な評言、ありがとうございました。全文はこちらをクリック→(

また、同27日付の 週刊読書人 さんの企画、「2012年上半期の収穫から」では、ドイツ文学者の 池田浩士さん が取り上げてくださいました。

「食生活という最も基本的な日常の営みに即して、ナチズムと国民との関係(流行語で言えば「絆」)」の在り方を描き出したユニークな研究。私たち自身の生き方を問い直すうえでも、刺激的なてがかりとなる」

と高く評価していただいております。池田さん、ありがとうございました。
そのほか、各ブログをはじめ、Twitter、Facebook 等の SNS でもご高評くださったみまさま、著者の藤原さんともども感謝しております!

アマゾンさんでは品切れが続いておりますが、小社の倉庫にも在庫がない状態です……。全国のリアル書店さん、ネット書店さんではまだ入手可能ですので、ぜひ、いまのうちにお求めいただければ幸いです。



なお、その『ナチスのキッチン』をめぐって、2つのインタビューが公開されました。

ひとつはすでに USTREAM 上で閲覧できるもので、渋谷でユニークなコミュニティを形成している「渋家」で収録されたものです。藤原さんのモティーフに、若いひとたちが斬り込んでいます。90分弱にわたるセッション、ぜひご視聴ください。こちらをクリック→(



そしてもうひとつ、『図書新聞』8月4日号に掲載された、ロングインタビューです。著者自身が語る、本書の非常に充実した解説になっています。今回、図書新聞さんのおゆるしをえて、以下に全文を転載させていただきます。転載をご快諾いただいたS編集長に重ねて御礼申しあげます!

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藤原辰史氏に聞く、『ナチスのキッチン』をめぐって

「台所」から見えたナチスの矛盾
「公衆食堂」が今後の面白い一つの拠点になるのではないか


▼藤原辰史著『ナチスのキッチン——「食べること」の環境史』
5・30刊、四六判452頁・本体4,000円・水声社


▼藤原辰史(ふじはら・たつし)氏:農業思想史、農業技術史専攻。東京大学大学院農学生命科学研究科講師。1976年北海道生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中途退学。主な著書に『カブラの冬』『ナチス・ドイツの有機農業』など。

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『ナチスのキッチン——「食べること」の環境史』。なんとも魅力的なタイトルである。「モーレツ社員」の時代なんかとっくに終わったのに、なぜまだ私たちは「瞬間チャージ」を喜び、石田徹也の絵に描かれるがごとき「燃料補給のような食事」を求めるのだろうか。本書の著者、藤原辰史氏に話を聞いた。(インタビュー日・6月28日。東京・神田神保町にて。聞き手・須藤巧〔本紙編集〕)


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◎人々を「未来へ、未来へ」と駆り立てるのがレシピ本

——本書には、タイトルからの予想に反して、実はナチスについて直接はあまり出てこないんですね。その代わりというわけではありませんが、19世紀後半から1945年までのドイツの「台所」におけるテイラー主義の導入と浸透の過程が跡付けられています。ナチスは「血と土」という、ある意味で「非合理的なもの」と、テイラー主義的な「合理的なもの」を奇妙なかたちで並立させていた。その奇妙な並立関係に台所という視点から迫っています。そうした発想のきっかけは何だったのでしょうか。


藤原:2008年に『食の共同体』(ナカニシヤ出版)という本を農学者仲間と共同執筆したのですが、きっかけは2005年に日本で食育基本法が成立したからでした。食を通じて児童・生徒を教育し、日本人の健康を保ち、日本の食文化を復興させ、更には農業を盛り上げていきましょうというような法律です。これに対して「気持ち悪いよね」と思った人たちが集まってつくったのが先の本です(笑)。私が担当したのは、ナチス時代の「主婦」政策だったのですが、そのときには台所についてなんて考えていませんでした。むしろ「食」の政策について考えていました。しかし、ナチス時代の「アイントプフ(雑炊)運動」や「無駄なくせ闘争」などを調べているうちに、「主婦」が毎日使っている台所という空間がどういうものだったのか知りたいと思うようになりました。

調べていくと、二つの方向が見えてきました。一つは、台所はゲルマン信仰として非常に重要な場所であるということです。台所の火をずっと守り続ける=家を守り続けることが、ゲルマン民族の根本だと。これは非合理的というか、神話的な話です。もう一つは、ナチス以前からずっと続いていた、台所のテイラー主義化・合理化・システムキッチン化です。ナチスにおいては、彼らが政権をとった1933年1月30日以前からの陸続きの部分が非常に多い。台所から見てもそう言えるんじゃないか。深い矛盾が、台所からも見えてきました。

——本書第4章は「レシピの思想史」と題されています。レシピの思想史なんて考えたことはありませんでした(笑)。

藤原:斎藤美奈子さんの『戦下のレシピ』(岩波アクティブ新書)という本があります。それを読んで、「レシピから歴史が書けるんだ!」と思ったんです。同じ発想でナチスを論じたいと思っていたんですが、具体的にドイツのどこにレシピが眠っているかわからなかった。図書館にもあるのですが、所蔵されている版が飛び飛びだったりして、系統的にレシピの変遷を追うことができませんでした。ここで役だったのが古本屋です。大きめの古本屋には「Kochbuch」(料理本)の棚があり、これを収集しながら穴を一つ一つ埋めていきました。ただ最初は、読んでみても、図がなかったり食材の意味が分からなかったりして、料理をイメージしにくかった。そこで、「はじめに」だけを拾い読みしてみました。すると、途端に面白くなった。一九世紀のベストセラーには、「料理とは、夫の愛を繋ぎ止めるための手段である」と書かれている(笑)。しかし、時代を追うにつれて、料理の目的が「夫を振り向かせる」ことから「家族の健康を守る」ことに、そしてナチ時代の末期には「機械になること」が推奨される。そうすると、私の頭の中に漠然とあったドイツ思想、もしくはヨーロッパの歴史の流れとは少し違ったものが見えてきたのです。

——そうしたレシピを読んでいくと、レシピは「人びとの未来の食生活の理想を表わしている」(p.262)と言えるという一節があります。これは膝を打つ指摘です。それから、ナチ時代には、アメリカ式の大量生産を夢見て、自動車(フォルクスワーゲンVolkswagen)やミシンなど、企業が開発しようとした消費財がたくさんあったんですね。その一つに「民衆冷蔵庫」があります。これは結局実現しませんでしたが、このような「ほとんど存在しない消費財」、つまり「実現はしなかったけれども、人びとの心にはある種の現実として映ったかもしれない〈未来〉の問題」(p.341)に、藤原さんは言及されています。「過去」を読むと「未来」が見えてくるというのはとても面白いですね。

藤原:でも、最初にレシピを読んだときにはそうした発想はなかったんです。レシピから、当該の時代の食生活の反映が見られればと思っていました。19世紀から20世紀への世紀転換期にはドイツで肉食がすごく増えていたので、レシピを見ても肉食が増えているに違いないという程度に考えていたんです。しかし、統計をとってみると野菜レシピが増えている。また「当時、こんなものは食べなかっただろう」とか「この階級の人がこんな派手なものを食べようと思わなかっただろう」とか、相当現実離れしたレシピも多かった。そして、現在もそうかもしれませんが、レシピ本を書く人ってテンションが高いんです。今現在の人々が食べているものを写生して「はい、どうぞ」と見せるレシピ本はつまらない。何か発明したり、考えもつかなかったような食材の組み合わせでつくった料理をみんなに紹介したいという高い欲求があるからこそ、現在でもレシピ本というジャンルは成り立つんだと気づきました。実際にナチ時代のレシピを見ると、当時の人では到底買えないような、ジーメンスなどの電器企業の道具をバシバシ使っている。しかもレシピには企業の広告が入っている。この道具を使えばこんな立派な料理がつくれて、そうすればこんな立派な家庭をつくれて、生活がもっと豊かになるよと。つまり、人々を「未来へ、未来へ」と駆り立てるのがレシピ本だということが見えてきました。

これはナチス研究をするにあたっても重要な視点です。「ナチスがやったこと」、ナチス時代の社会の「現実」を、多くの先行研究は研究してきました。もちろんそれはたくさんのことを明らかにしましたが、「やろうとして失敗したこと」とか、未来を担保にして人々にドイツの現実を「生きさせていた」政権がナチスだったということを、レシピを通して主張したかったんです。

◎「不穏な場所」としての台所に可能性がみえる

——本書において、女性、母、「主婦」の位置はどうなっていますか?

藤原:第1章第2項の「ドイツ台所外史——〈キッチンの集団化〉という傍流」では、社会主義者だったアウグスト・ベーベルと、彼に感化された女性運動家のリリー・ブラウンという二人を取り上げました。特にリリー・ブラウンは、アメリカのテクノロジーを間近に見てしまって、「これで女性を救うことができる」と思った。なぜなら、これだけのテクノロジーがあれば、一つの集合住宅に一個のキッチンを設置して大きな機械を入れてしまえば、「主婦」の労力は相当少なくなるし、あるいは「主婦」が家事労働をしなくても、誰かを雇ったり、交代で家事をしたりすれば、女性は解放されるんじゃないかという発想——現在でもあるシェアハウスの発想ですね——が19世紀の終わりごろに社会主義者から提出された。これは興味深いと思いました。現在でもこの発想が続いていれば面白いと思いましたが、しかしこれは、集団食堂のようなかたちで、第一次世界大戦中、必要やむを得ず人びとに利用されたに過ぎなかった。大戦が終わるとまた台所のプライベート化が進みます。アメリカのテクノロジーは参照しますが、「1家族・1台所」で、各家庭に「主婦」がペタッと貼りついていく。この過程の中に消えていった歴史を救い上げたいという思いはありました。少なくともそこには「女性解放」の理念がありました。社会主義者たちによる「主婦」の解放史の中に、「主婦」の台所仕事を軽減する、あるいはゼロにしようとする運動があった。台所を変えることによって、女性の位置づけを変えようとしていたんですね。

本書でかなりページを割いて紹介した人物に、シュッテ=リホツキーという共産主義者の建築家がいます。彼女は、テイラー主義に感化され、女性を解放するために「フランクフルト・キッチン」、つまりシステムキッチンの原型を設計したのですが(スターリンのソ連でも活躍しました)、それは現在の私たちのキッチンにも導入されていますよね。では、それによって「主婦」は解放されたのでしょうか。ある程度はそう言えるでしょう。「チン」一つで調理が終わったりしますから。しかし、それと引き換えに何が起こったでしょうか。台所が市場化し、企業がそこにモノを売りまくって、家計が厳しくなり、結局「主婦」たちは「夢」を見るけれども、台所器具を買うために働きにいったり内職をしたりする。そのまま現代に至っている気がするんです。あるところまでは「主婦」の解放であった一見まっとうなものが、企業や国家によって、悲しいかたちでまた女性を縛っていく。

——先に台所における信仰の話が出ましたが、もう少し詳しく聞きたいのですが。

藤原:ある集団の中で、ある人間が包丁を握っている。うまくやれば、それで集団の権力者を殺してのし上がることもできる(極端に言えば、ですけど)。そして台所では、食べ物を人間の胃袋に収めるために水や火などあらゆる手段を使って、「あらぶる自然」としての食べ物を刻んだり焼いたり引き裂いたりします。血や体液が飛び散り、細菌もウヨウヨ。だから台所は、本当はグロテスクで危険な場所で、現在でも管理しきれていないのです(火の取り扱いもそうです)。そういう場所には古くから信仰がありました。農業でもそうですよね。作物を収穫したら、神様に捧げ物をする。自然と人間が厳しく対峙するところには必ず信仰が生まれます。台所の信仰はドイツにもありましたが、これが近代になってまったく違うものになっていく。その最たるものが、繰り返しになりますがテイラー主義です。あるいは栄養学や家政学。それらの言葉で書かれたレシピは、しかしいつまでたっても、料理の一番奥にあるもの、一番面白くて難しい部分をまったく説明してくれません。

——さて、本書には読みどころが多数ありますが、10ページほどの「〈食べること〉の救出に向けて——あとがきにかえて」には驚きました。食をめぐる状況を考えるときに、極論かもしれないけれども、強制収容所に入ったいわゆる「囚人」と「主婦」は、真逆に見えるが、似ているのではないかという主張です。どうしてそうなったのか。藤原さんは、それは資本主義の問題に尽きると述べます。では、どうしたらいいのか。


藤原:私は、「公衆食堂」が、今後の面白い一つの拠点になるのではないかとずっと考えてきました。テイラー主義なり合理化なり企業なり国家なりが、奥の奥まで手を伸ばしたけれども、まだ管理しきれないのが台所という場所です。そういう場所があること自体が、私には面白いんです。例えば巨大なショッピングセンターのような均質化された場所でも、フードコートのような「朗らかな」場所がポコッと出てくる。「穴を開ける」までは行かなくても、均質化された四角い空間を少しずつ「腐らせ」たり「曲げ」たりしていくのは、やはりそうした食事をつくって食べる場所だろうと思うんです(とはいえ、フードコートには欲望の塊のようなファストフードのチェーン店が多いですけど)。そこでは少なくとも食に対する疑問や不満を共有できる。

そして共に食べることを通じて、食が商品化されているということ自体を問うていかなければならないと思っています。農地を公衆食堂につなぐこともできる。つくった場所と食べる場所がわかる食堂になれば、そこにいろんな人が集まってくる。食べるだけの人やつくるだけの人がいてもいい。「個食」にこだわる人がいてもいいんです。あるいは家族で食べに来たっていい。何かにすがらないと落ち着かない、不穏な場所としての台所の、その不安定さ加減こそが、私には逆に可能性にみえるんです。(了)

Courtesy of Tatsushi Fujihara and TOSHOSHIMBUN.