第1回 文化人類学と文学②

目次
第1回 文化人類学と文学:はじめに
① 「不可量部分」と「イメージ」
② 多元性・複数性
③ 幻覚体験をめぐって
④ 「フレーム」をめぐる体験




② 多元性・複数性

塚本  ありがとうございます。ここまで展開されてきたお話をそのまま引き継ぐのではなく、箭内先生の今日のご講演を聞いて思ったことを最初に述べさせていただきます。そのどこかで、イメージの話に接続することになると思います。先生のご講演から強烈に印象づけられたのは、多元的な現実を、多元的なままとらえようとする強い意志です。これには非常に驚きました。マプーチェでの調査の話のなかで、どこまでがチリの文化で、どこまでがマプーチェの文化なのかわからないという指摘がありました。マプーチェの村人たちが話す言葉にしても、固有の言語が何であるのかがわからない。青年たちは普段チリ語を話していて、ほとんどマプーチェ語を話さない。ただ、四年に一度のカマリクン儀礼の時にちょっと、マプーチェ語を話すということです。現地語って何か、調査の対象になる言語そのものが何か、ということ自体がすでに問題なわけですね。ある地域に住んでいる人間が、多様な文化、多様な言語に貫かれていて、ある状況において、なにかマプーチェ的なもの、たとえば儀礼にふさわしい振るまいをすることがあったとしても、平常はそのことを忘れている。フィールドで出会うのは、そのように一つの文化、一つの言語、一人の人間のアイデンティティっていう形でまとめてとらえることができないものだということがわかりました。それは多元的で、とらえどころのない現実です。それを出発点に、どうやってうまく学問として語ることができるような言葉を結晶化させていくことができるか。そうした問題意識から、イメージという考え方が出てきた、というふうに私は受けとめました。しかもイメージは動かない対象としてあるのではなく、現実を捉えようとする一つのプロセスとお考えになっている。脱イメージ化、再イメージ化、再イメージの照り返し……そういう一つのダイナミックなプロセスによって、現実と想われていたものを何度も捉え返しながら生きている人間に迫る──そのための方法がイメージという視点なのだというふうに私は理解しました。つまり、とらえどころが無いわけですよね。ある時はチリ語を話し、ある時はマプーチェ語を話す、普段はスペイン語を話す南米チリの人として生きているのに、儀礼のときなどはマプーチェの伝統の中に生きる、みたいな感じですね。そういう人を、どうやって記述するのかという時に、その多様な現実にある種の形を与えるために、イメージをめぐる一連のプロセスをお考えになったのではないでしょうか。「照り返し」という言葉が少し難しいですが、次のように理解できるでしょうか。まず、現実に形が与えられるように、「脱イメージ化」していくことで知覚される現実を少し歪めていく。それを、言葉によって回収し、定着させていく「再イメージ化」の作業が次に来るが、ただ単に現実から遊離した言葉がそこで出来るんじゃなくて、その言葉を、現実にリンクさせていくプロセスが必要で、それを「照り返し」っていう言葉で、おっしゃったんじゃないでしょうか。つまり、何だかとらえどころのない現実を、とにかく、とらえるために一つの形を設定し、それが現実から遊離したものでなくならないように、照り返しのほうへと持っていく。そのようなモデルを創りだしながら、多様なものを多様なものとしてとらえようとなさっていることに、非常に驚きました。人類学が新たに盛り上がっているっていう、その状況が、箭内先生の言葉を通して、非常によく感じられました。

私としては、先生のお話を文学に引きつけて何が言えるのかを考えてみたいと思います。多元的でとらえどころのない現実を多元的なまま捉えようとする試みが文学にあるのかと考えて、まず思いつくのはクロード・シモンの『アカシア』という小説です。主人公の所属する騎兵連隊が、第二次世界大戦で、ドイツ軍の待ち伏せ攻撃に遭ってほぼ全滅した。その中で、四人ほどの兵隊が生き延びた。クロード・シモンは、そうやって生き延びた一人だったわけで、その体験を語る本なんですが、それは整然と一つの物語として語れるような体験ではない。クロード・シモンの作品は、その体験をどのように語ることができるのかということが一つの核となっているのですが、『アカシア』では、命を脅かされた体験を、自分一人の体験に留めるんじゃなくて、第一次大戦で死んでしまった、父親の体験のほうへと開いていくんですね。伝聞で聞いた、大戦中の父親の死と、自分が「経験した」って言っても、ほとんど言語化できないような、めちゃくちゃな記憶を接続する。複数化することによって、言語化できない経験に形をあたえようと試みているんです。クロード・シモンはその試みを、『農耕詩』ではさらに複雑化して、200年前に、フランス革命に出会った祖先の話と、それから『カタロニア讃歌』でジョージ・オーウェルが語っているスペイン内乱の話へとさらに広げている。ジョージ・オーウェルは、この戦争で首を銃弾で貫かれているのですが……ドイツ軍の攻撃で死にそうになった主人公と、二百年前の祖先三人が、同じ「彼」として、混ざり合うような形で、最初に脈絡がつかめないまま話が切り替わっていく……つまり、何て言うんでしょう。一人の人間が経験したことというのを、一人の人間、一つの時代、一つの状況だけでは語れないっていう視点をシモンは提示しているように見えるのです。自己をいかに複数化するか、自分の一個の体験というものを語ろうとしても、一個の人間の体験という枠に収まらない、そんな体験を、色んな時代の、色んな人物へと開いていくっていうシモンの手法を思い出しました。箭内先生が展開された、形にならない多様な現実を、多様なままとらえるっていう話にどこまでリンクするのかわかりませんが、これはある主観を通して見えてくる世界を描くという、小説のもっとも基本的な姿勢から逸脱して、多元性を捉えようとする試みであることは確かです。一人の人間というアイデンティティに収まりきらない経験を、どうすれば語ることができるようになるのかという疑問への一つの解答ということで思いつきました。

そういう方向性を、一つ思うと同時に、でも、そういう話をすると、文学の寄って立つ基盤として、一人の人物を通して語るっていうスタイルそのものの重要性が逆に浮き彫りにされるようにも思います。ここで言う一人の人物は、決して生きた人間ではないし、虚構の産物であることを、書き手も受け手も分かっている。そういう作り物のフィクションを交えたものによってしかとらえられない現実をとらえるっていう、そういう文学の構えというのが、逆に、今の箭内先生のお話と対比して印象づけられました。一人の人間のアイデンティティが明確ではなく、どのように関係しているのかわからない多元的な現実のなかで生きていることを、イメージが形成されるプロセスを通して把握するという姿勢。それに対して、書き手も読み手も参加して一つの虚構として築かれる一個の身体を通して経験のあり方をとらえようとする姿勢。この「イメージの人類学」が示す姿勢と文学の基本的な姿勢の関係をにわかに関係づけることはできないのですが、いずれにせよ鈴木雅雄さんも問題にした、マリノフスキーの言う不可量部分に迫ろうとする部分は共通しているように思えます。ただ、フィールドワークとして他人の中に入っていって、このとらえどころのない現実をどうやってとらえるかを探る方向性と、虚構の一個の人物っていうか、それを作者が同時代の読者との関係において、想像力の中で作っていくやり方っていう、構えの違いみたいなものはあるように思います。この点について反応をお聞かせ頂けると嬉しいです。

箭内  大変興味深い、刺激的なコメントをありがとうございます。「多元的な現実を、多元的なままとらえようとする」という点も、私の議論にとって極めて本質的な点で、そこを取り上げてくださって嬉しく思います。文学と人類学の違いについて、私はさきほど、現実的なものと潜在的なものへの重点の置き方が違うのではないか、ということを言いました。クロード・シモンの文学について、今塚本先生が説明してくださったことをもとに考えると、やはり、一つの体験の潜在的な広がりというものを極端に敏感に捉え、さらにそれを何倍にも増幅させるなかで生み出されるものではないか、ということを感じます。人類学者の書いた本で、そういう文学的営みに圧倒的に肉薄しているのは、やはりレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』だったと思います。あそこまで勇敢に、かつ思考の緊張度を保ちながら、自分の中の「潜在的なもの」に踏み込んでいくのは、容易に真似できることではありませんが……。

ただ他方で、人類学者がむしろ思いがけず文学的なものに接近する瞬間というのは確かにあって、塚本先生がご指摘くださった「多元的な現実を、多元的なままとらえようとする」という点は、それと関わっていると思います。実際、私は1990年代前半に「想起と反復――あるマプーチェの夢語りの分析」という論文を書いたのですが、私自身は文学的であろうなどとは全く思っていなかったのに、それを読んだ人から、文学みたいだとか、「読んでいてドキドキした、人類学の論文を読んでドキドキしたのは初めてだ」といったコメントをいただいたのを覚えています(注1)。フィールドの現実を一元的な形に還元してしまうことを拒否し、あくまでも現実の多元性に密着して考えようとすると、それが自分の中に――そしてもちろん現地の人々の中に――生み出す余韻や倍音、そしてそれらの響き合いを気にせざるをえなくなる。人類学の仕事は、習慣的記憶の領域にとどまることができなくなって、想起記憶の広がりへと重なっていきます。


(注1) 『民族学研究』58巻3号 (223-247頁)、1993年。



第1回 文化人類学と文学:はじめに
① 「不可量部分」と「イメージ」
② 多元性・複数性
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④ 「フレーム」をめぐる体験