第1回 文化人類学と文学③

目次
第1回 文化人類学と文学:はじめに
① 「不可量部分」と「イメージ」
② 多元性・複数性
③ 幻覚体験をめぐって
④ 「フレーム」をめぐる体験




③ 幻覚体験をめぐって

塚本  あの、そこでご発表のなかで一点、これだけはどうしてもひっかかってお尋ねしたいって思ったことがあります。アヤワスカによる幻覚体験について、箭内先生は世界に開かれていって、自己の身体を原点とする思考に戻れないとおっしゃいました(注1)。幻覚によって、自己がそこまで世界に開かれるということが本当にあるのでしょうか。文学が問題となるときには、人間が想像力を働かせるとき、どこまでその想像力の極限に行こうとしても、一個の身体という枠組みから外れることはできない。現実の身体感覚だったとしても、仮想の身体感覚だったとしても、とにかく一個の身体を出発点として、そこから離れることができないという点が非常に重要だと思うんですよね。先ほどの箭内先生のお話では、幻覚によって開かれた世界では、別に自分が中心じゃなくていい、という感触を覚えたとのことでした。感覚ってそこまで拡散し、開かれるものなんでしょうか? 聞いて良いことなのかどうか、ためらわれる部分もあるんですけど……。

箭内  お話しすることは構わないのですが、躊躇するところはあります。というのは、私は合計するとアヤワスカを十数回飲んだことがありますが、幻覚体験というのは広大な世界で、きちんと客観的に語れるかどうか……。

塚本  要するに、ここに居ながら別の所にも居る。身体が別の所に、さまざまに遍在するような感覚なんでしょうか?

箭内  幻覚経験としてかなり一般的だと思いますが、身体が遍在するというより、むしろ反対に、自分がコントロールしていたはずの身体がバラバラになる、ということがまずあると思います。私が初めてアヤワスカを飲んだ時のことですが、途中で非常に息苦しくなって、強烈な吐き気がしてきました。もう駄目だ、庭に出て吐くしかない、と思ったとき、自分の腕が胸の上に乗っていて、その重さを数倍、数十倍に感じていることにふと気がつきました。アヤワスカのせいで感覚が非常に敏感になっていたんです。そこで、腕を払いのけてみたら、一気に気分が良くなりました。バカみたいな話です。でも、ここで重要だと思うのは、私の腕が胸を圧迫していた時、私が自分の腕のことを完全に忘れていたことです。腕は私の意識から切り離され、自分とは無関係なモノのようなものでした。でも、いざ動かそうとすれば腕を動かすこともでき、その瞬間に、腕は私の身体の一部として機能したわけです。身体の境界が縮んだり、拡大したりする。もう一方で、幻覚状態のもとでは聴覚も敏感になっているので、遠くで誰かがヒソヒソと話していると、その声がマイクで拾ったかのように近くで聴こえる感じがしたりします。つまり、身体が広がっていくという方向性も確かにある。結論的に言えば、身体が遍在する状態というのではなくて、まずは「私の身体」の自明性が崩れ、そしてそこに、様々な広がりを持つ可能的身体が立ち現れてくる、とでも言えるかもしれません。アヤワスカを繰り返し飲んでいると、だんだんそういう身体の伸縮に慣れてきて、それを自然なものとして考えるようになります。

塚本  かなり日常とは異なる身体技法、薬物による身体の変化っていうことが、経験の地平のうえに、もう一つ違ったイメージ平面を開いているのでしょうか?

箭内  はい、そうですね。でも、同時に強調したいのは、それは日常経験の範囲から完全に逸脱したものでもないということです。ある瞬間、何らかの理由で感覚が非常に研ぎ澄まされれば、同じような経験の次元は(より見えにくい形ではあれ)立ち現れてくるはずだと思うのです。実は、これまであまり人前でお話ししたことはなかったのですが、私は憑依らしきものの経験もあります。アヤワスカの場合、普通は酩酊状態のようなものでは全くなくて、意識は非常に明敏な状態にあるのですが、一度だけ、なぜかいつもの倍の量を飲んだ時に意識を失った状態になりました。最初、非常に辛くて、目の前にいた老シャーマンが「頑張るんだ!」と励ましてくれました。そして、幻覚状態に入ったあとしばらくして、シャーマンたちが周りで歌を歌い始め、私も気持ちが良くなって、それを真似して自分でも歌い出しました――そこまで覚えていて、そのあとの記憶が全くないんです。それで、ようやく意識が戻ったら、老シャーマンから「お前はずいぶん進歩した」と褒められました。周りの人に、一体何が起こったのかを訊くと、私は「植物の精霊に憑依されていて」、全然習得していなかった現地語で延々と歌を歌っていたそうです。あえてこの話をしたのは、憑依というのは外側からみると異様に思われるけれど、内側からの経験としては、それほど異様なことではないことを主張したかったからです。実際、考えてみれば、憑依は夢とたいして変わらないものだとも言える。皆慣れているから夢をさほど不思議とは思わないけれど、自分で自分をコントロールできず、何か訳のわからないものに引きずり回されている、という点では、憑依と全く同じです――違うのは、夢では「見ている」のに対し、憑依では「(歌ったり、踊ったり、しゃべったりして)行動している」という点だけです。

塚本  なるほど。非常に興味深いんですけど……人前ではこれ以上言えない部分もあるかもしれません……。少し話が変わりますが、先ほどベルティンクのイメージ人類学の話が鈴木雅雄さんから出ましたけれど、あの中で規定されているイメージには、身体でない物って規定があるんですね。つまり、身体に基づいて考え得るものとは違うものをイメージというふうに規定している。そういう意味では、ベルティンクの言うイメージは、箭内先生がお話しくださったイメージとは、かなり違うものなのでしょうか。

鈴木  たしかに扱っている対象が違うっていうことはありますよね。ただベルティンクの話も、イメージとメディアと身体という三つのものの繋がりを考えているわけで、違うともいえるし、近いともいえるっていうかな。難しいところだと思います(注2)

箭内  私は『イメージの人類学』で、スピノザ的なアイデアのもとで「社会身体」という言葉を使いました。誤解を招きやすい用語だったとやや反省していますが、この「社会身体」は「個人的身体」と対立するのではなく、それと重なりうるものです。スピノザが言う通り、人間の身体は様々な部分から成っていて、さらにその様々な部分自体もさらに様々な部分から成っている――「社会身体」は、そうした集合体を大小・高低のレベルに関わらず指し示す概念です(これはもちろん、先ほどお話ししたアヤワスカの経験とも通じるアイデアです)。だから個人の身体も「社会身体」の一形態になるわけです。なぜこの話をするかというと、ベルティンクが身体という時には、あくまでも個人的身体が前提になっていて、そこで、イメージと身体の関係についての考え方も大きくずれている、という点を述べたかったからです。ただし、これは理論的構図の話です。ベルティンクが具体的に論じていることについては、人類学的問題と実際に関わっていく部分がいろいろありうると思います。だから、「違うともいえるし、近いともいえる」という鈴木先生のお言葉には賛成です。

塚本  文学の中でイメージということで、もう少し別の角度からお尋ねします。明治時代の重苦しい文章が、大正時代、感覚的にすごく解放された時期があって、例えば、芥川龍之介の『蜜柑』とか、梶井基次郎の『檸檬』という小説がありますね。非常に陰鬱な日常があって、どうしても晴れない気分があるのに、少女が蜜柑を列車の窓から投げるというたった一つの動作によって、主人公が救われた気持ちになる。あるいは、積みあげた本のうえに檸檬を載せることで、救われたと感じる。基調となる気分が、あるイメージの出現によって一瞬にして変化し、一つの作品が終わる。イメージには、何かを結晶化させ、違った現実を見せてくれるという側面がある。箭内先生も、何か結晶化の粒として、イメージをお考えのところはありませんか? 切れ目がなく、どんな風に対象をとらえていいか分からないものを言語化するために、つまり人類学の知の対象とするために、自分が経験したものは何かということを形象化するために必要な、結晶化の粒として、イメージというものを捉えてらっしゃるところもあるんじゃないでしょうか。

箭内  私の個人的な考え方というよりも、人類学的観点からいえば、結晶化の粒というのはフィールドの中に確かに存在していると思います。例えば、マプーチェの儀礼で、たとえば儀礼場の周りを4の倍数回まわる動作とか、儀礼のクライマックスで出てくる生贄の牛の心臓とか、そういうイメージには、いろんな経験の層が収斂していて、マプーチェの人々を深く感動させる。そして私自身もフィールドワークを続ける中でそれに感動を覚えるようになりました。ただ、今おっしゃった芥川龍之介や梶井基次郎の作品の中の蜜柑や檸檬には、それとは違う点もある。というのは、そうした蜜柑や檸檬は、儀礼の中のイメージとは違って、不意打ちのように突如、結晶化の粒として現れるのだと思うからです。私は今、ベンヤミンのボードレール論を思い出しながらこれを言っているのですけれど(注3)

鈴木  ただ、結晶化というのはわかりますけど、他方では運動ないし移動するものとしてのイメージという側面も大きいですよね。脱イメージ化、再イメージ化、再イメージの照り返しといった運動の中で捉えようとされているところに、箭内先生のイメージ概念の大きな特徴があると思うんですけど。

箭内  はい、そうですね。『イメージの人類学』の中では、芸術の問題は触れられなかったのですが、まさにイメージの結晶化と「脱+再イメージ化」の両方が大事だと思っています。先日、建築雑誌『GA JAPAN』の編集者の方とお話しする機会があって、ちょうどそこでお話ししたのですが、例えば建築においても、物質的なレベルや力学的なレベルから、視覚的なイメージ、さらには言語的・物語的なレベルまで、重層的なイメージから成っていて、それらが響き合うところに建築的創造のポイントがあるように思います(注4)。建築家は、それぞれのイメージ平面できちんと考えないといけないけれど、もう一方で、どこか裏の方で、それを全体としてまとめ上げようともしている――そこに一種の不協和音を持ち込んだりする、という可能性も含めてですが。同じことは文学についても言えるのではないか、とも思います。


(注1) 1984〜85年、ペルー東部のアマゾン上流域の先住民シピボ=コニボのグループと親しくなり、幻覚性植物アヤワスカの煮汁を飲んだ体験について、講演の中でお話があった。
(注2) ベルティンクのイメージに関する考察は、イメージとメディアと身体という三項を関係づけながら考えている点に特徴がある。とりわけ、イメージが可視的になるために「支持体メディア(Trägermedium)」が必要であると強調している。(ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』仲間裕子訳、平凡社、2014年、44-45頁)。イメージが、身体や物と区別されるのは、ベルティンクによれば、メディアが媒介するためである。その一方で、イメージがメディアと区別されるのは、身体意識のおかげであるとも指摘している。「われわれがイメージを知覚する際、イメージを身体そのものとも、また単なる物体とも混同しないのは、ひとえにメディアの媒介ゆえである。だがその一方で、われわれがイメージとメディアを区別するのは身体意識によっている。」(同書、27頁)
(注3) ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールのいくつかのモティーフについて」円子修平訳、『ボードレール 新編増補』(ヴァルター・ベンヤミン著作集6)、晶文社、1975年。
(注4) 箭内匡「イメージの人類学から見た映像と建築」『GA JAPAN』159号(2019年7月)、120〜123頁。



第1回 文化人類学と文学:はじめに
① 「不可量部分」と「イメージ」
② 多元性・複数性
③ 幻覚体験をめぐって
④ 「フレーム」をめぐる体験