第2回 フィクションと文学①

目次
はじめに――フィクション論の現在──ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』をめぐって
① 小説論ではないフィクション論
② フィクションと事実の区別
③ フィクションと現実の境界をずらす
④ フィクションと夢




① 小説論ではないフィクション論

塚本  今日の講演会、本当にありがとうございました。シェフェールのこの『なぜフィクションか』という本は、とても難しいんですけれども、お話をうかがっていて頭の中がかなりクリアーに整理されました。シェフェールはフィクションを「共有された遊戯的偽装」と定義していますが、この定義がどのような議論の流れの中で出てきたのか、この定義にどのような広がりがあるのかを見事に示していただきました(注1)。私の方からは、三つほど質問とコメントをさせていただきたいなと思っております。まず一つは、このシェフェールのフィクション論がもはや小説論でも物語論でもないという問題です。フィクション論はある時期まではそのまま小説論であって、フィクション論=小説論、フィクション論=物語論という時代がつづきましたが、その箍が外れてしまって、もっと違った枠組みでフィクションについて論じること自体に大きな意味があると思われます。久保さんは、小説論ではないフィクション論をどのように位置づけられているのか、というのが第一の質問です。二つ目は、久保さんが講演の最後で強調された「事実とフィクションの区別」についてです。二つを厳しく分けなければならないという姿勢に、きわめて強い倫理性を感じました。あらゆるものが「フィクションだ」と言うのではなく、フィクションと事実を厳密に区別することによってこそ、フィクションというものの良さが出るという見方について、質問・コメントをさせていただきたいと思います。三つ目は、今日はお話にならなかったんですけど、シェフェールの本の中では「没入」ということが強調されていますね。「没入」はこの本の重要な視点であると同時に、きわめて扱いが難しい論点でもあります。この機会に、久保さんがシェフェールの「没入」という考え方をどのように捉えられているのか、ごく簡単にお話いただければ嬉しいです。お答えいただく前に、私のほうからこの三点についてコメントさせていただきます。

 最初に、フィクション論が、小説論、物語論じゃなくなったっていうことに大きな衝撃を受けました。今日の久保さんの話をうかがいながら、この点について妄想的に思ったことをまず言わせていただきます。久保さんが最初に紹介して下さったフィクション論の流れを見ていてはっきり分かったことは、フィクション論の現在の隆盛は、ジョン・サール、トマス・パヴェル、ケーテ・ハンブルガー、ジェラール・ジュネット等が、1980年代後半以降に発展させてきた議論が基盤となっているということです。では、それ以前、フィクションを論じることがそのまま小説を論じることだったという時代が、はたしてどういう時代だったのかを考えてみると、それは優れた小説作品が書かれると同時に、真実を語る言説が力をもっていた時代と言えるのではないでしょうか。つまり、まず現実を、真実を語る言説があると信じられていて、小説はその言説との関係において位置づけられていた。事実を語る強力な言説があるからこそ、虚構において架空の人物の架空の人生を通して何かを語ることで、事実を語る言説ではとても述べることができない真実に逆に分け入っていくことができる、そういう考え方が有り得たと思うんです。ところが、1980年代後半以降、時代の流れのなかでそのような図式が崩れていった。事実の言説と、虚構の言説との区別が明確ではなくなってゆくということです。このことの意味は、非常に新しい歴史なので殆ど妄想的にしか語ることができませんが、はっきり言えることのひとつは、それがグローバリゼーションの進行した時代であるということです。

 フランス革命の分析で有名なリン・ハントという歴史家は、グローバリゼーションと近代とを結びつける必要はないと強調をしています(注2)。グローバリゼーションは、例えば気候変動によって人類がアフリカから出て世界に広がるとか、ローマ帝国が支配を広げるために地中海の国々を制覇していくとか、シルクロードの交易や三角貿易の交易、あるいはキリスト教、イスラム教、仏教の伝播など経済的、宗教的な次元で新たな交通が生まれるなどといった、古代からさまざまな形で繰り返されてきた過程であるというのが、リン・ハントの見立てです。現在のように、新しいコミュニケーションの技術が広がってゆくということ自体はこれまでにない状況かもしれませんが、地域を越えて、統治、貿易、宗教などに関わるプロセスが広がってゆくということ自体は、古代から繰り返されてきた。このことは、フィクション=小説論という図式が崩れていったことと、まったく無関係ではないと思うんです。リン・ハントがこのプロセスの結果として強調しているのは、国民国家という近代の枠組みのなかで可能となった、自律的な個人という幻想がはっきり終わったということです。つまり、自律的な個人という幻想があったからこそ、小説の人物たちが繰り広げる架空の物語に没入することができたのかもしれない。しかし、もはや人間が、国民国家という枠組みと自律的個人という幻想の追究という図式だけでは捉えきれなくなり、もっと別の所で進行するプロセスによって規定されているという認識が広がりはじめている。もし人間が物理的、経済的、政治的な状況によって完全に規定されてしまうのなら、少なくともフィクションが問題となるとき、小説という虚構だけを特権視することはできなくなっているのかもしれません。人間とは何か、という疑問を、もはや自律した個人という近代的幻想の枠組みで捉えられなくなっていることと、フィクション論をもはや小説の枠組みのなかに押し込められなくなっているということには、深い連関があるのではないでしょうか。ほとんど妄想のような話ですが、フィクションを小説から切り離して論じるとき、その基盤にどのような人間的状況があるとお考えなのか、大き過ぎて申し訳ない話ですが、そのことについて久保さんのお考えをお聞かせいただけると嬉しいです。

 第二点の「事実とフィクションの区別」は、今日の講演会でとても印象に残ったことです。シェフェールを読んだ時に、私にはそこまでははっきり読み取れませんでした。つまり、すべてはフィクションであるという、フィクションが全般化していく話なのかなと思っていたのですが、今日の久保さんのお話をうかがって、フィクションと区別される事実の領域が非常に大事であることを再認識しました。つまり、これは現実ではないっていう印を送ることによって、初めて可能になることがたくさんあるわけです。例えば、殺人が現実に起こったとすれば、犯罪を犯す方も被害を受けた方も大変なことになってしまうわけですが、フィクションであればそれが現実にどのような影響を及ぼすのかを一切考えなくてもいいわけですね。『罪と罰』を読むとき人物たちの行動が現実にどのような結果をもたらすのかをいちいち考えていたら、とても作品のなかに入っていくことはできない。フィクションだという了解が成り立っているからこそ許されることがあるわけです。ゲームについても同じことが言えるのではないでしょうか。飛行機操縦のシミュレーターと、飛行機の操縦で得点を競うようなゲームをはっきり区別し、現実のシミュレーションと、画面上でしか成立しない虚構の世界を区別しないと、大変な結果が生まれてしまう。シェフェールの論理を押し進めていくと、シミュレーターと遊びのゲームの区別はしっかり出来るように思います。つまり、この操作を現実に行うと、非常に重大な結果が起こると分かって何かをすることと、これはあくまでもふりをしているだけなのだという記号を発しながら、遊びのなかで行動することはまったく違うということです。「事実とフィクションの区別」は、フィクションというものを成り立たせる重要な何かに関わっているのかもしれません。

 クンデラが『裏切られた遺言』の中で、フィクションの世界を道徳的判断が中断される領域と規定しています(注3)。「パニュルジュが人を笑わせなくなる日」という文章の中で書いていることなのですが、このパニュルジュという人物は酷いことをするわけですね。商人に寝取られ男呼ばわりされたことに腹を立て、その商人の羊を海の中に放り込み、その商人も溺死させてしまう。もし、それを真実の話、現実の話と受けとめたら大変なことになるわけですが、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』っていう虚構の中で起こる物語だからこそ、我々はその話を笑いながら読むことが出来るわけです。ところが、最近は現実の生活においても、何ていうべきなのでしょう、ギリギリの状況が出てきているような気がします。ある種の話題については、嘘だっていう記号を出しながら話したとしても、ひょっとして現実的に逮捕されるとか、現実的に問題が起こるっていうところまでいってるんじゃないかっていう不安があります。そういう危機感があるからこそ、「これはあくまでもフィクションで架空の世界だから許される領域なんだ」と言うことのできる場所を確保しつづけることが、一つの倫理的な姿勢となりえるかもしれない、そういうことを思いました。これが第二点です。

 第三点として、シェフェールの「没入」についてお聞きしたいことがあります。今日のお話の中で、サールがフィクションを、現実にコミットしない姿勢によって規定している、という指摘がありました。久保さんは、ジュネットがこの視点を展開し、それがシェフェールに繋がってゆくという系譜を明らかにしてくださいましたが、現実にコミットしていないというは、実践的な局面で考えた場合、いったいどうすればはっきり示すことができるのでしょうか。自分のしていることは、現実に関わる行為ではなく、単なるふりであるという印をどうすれば発しつづけることができるのか。この点に関して、シェフェールはこの本の中で「没入の媒介」っていう言葉を使っているように思われます。ふりをすることがどうすれば可能となるのかということについて、ケンダル・ウォルトンは小道具の重要性を強調しています。一ヶ月前、同じフィクション論についてフランス文学会でワークショップが開催されたとき、立花史さんも小道具の重要性を強調なさっていました。先ほど、久保さんが、フィクションの実例についてお話しになろうとするとき、マイクという小道具をお使いになりましたよね。この小道具、シェフェールの言葉を使うと「没入の媒介」というのは、いったい何なのでしょうか。

 シェフェールは、小道具が現実の模倣と、見せかけの模倣の区別において重要であるだけでなく、ジャンルによって色々違ったものが使われるということを論じているように思えます。小説の場合、小道具になるのは、たとえば登場人物であり、この架空の人物という道具を使うことで、我々が普段近づくことが出来ないような世界へ入っていくことが可能となる。犯罪の世界や、禁じられた世界が、小説の登場人物を通して垣間見ることで、「これ、嘘だから」っていうことで、わくわくしながら入っていけるようになる。今日、映画と小説の違いという話題が出ませんでしたが、シェフェールはこれが映画の場合、登場人物への同一化が問題じゃないっていうことを言っていて、これは大変眼を開かれる思いがしました(注4)。ある知覚的回路、映画の画面を通して世界を見るっていう、知覚のあり方に同一化しているのであって、出てくる人物に、必ずしもその物語に同一化してるんじゃないとシェフェールは強調しています。現実と虚構を分かつこの小道具というものによって、つまり遊びで使われる素材や支持体によって、実は色んな虚構の可能性が広がることを、シェフェールは指摘してるんじゃないでしょうか。久保さんはこの点をどのようにお考えでしょうか。例えば、例が古くて申し訳ないんですが、タルコフスキーの『惑星ソラリス』。ソダバーグの『ソラリス』とは、色んな点で違っていますけれど、一番違う点は、水に対する感覚ではないでしょうか。タルコフスキーの映画の中では、最初に川の中で揺れている水藻を、主人公がじっと見つめている場面から始まり、最後は家の中に雨が降るシーンで終わります。惑星ソラリスという、海が進化して知性を持ち、そこにいる人間の記憶を物質化してしまう惑星という、嘘の世界を表現する時に、さまざまな形で知覚される水に注意を凝らす姿勢というのが、タルコフスキーの映画では非常に印象に残りますが、ソダーバーグにはそのような姿勢はありません。ソダーバーグの好きな人には申し訳ないんですけれども、この場合、物語の方に余りにも集中し過ぎてしまって、個人的には楽しめませんでした。フィクションのジャンルによって、小道具が違うということ、その違いの豊かさに、シェフェールの本がひょっとしたら開かれているのではないかという点について最後にお尋ねしたいと思います。

久保  なんだかさらに1時間半ぐらい喋らなければならないような感じの質問をいただきましたが、ごく簡単にお答え出来るところはしたいと思います。まず最初の、フィクション論が小説論や物語論の枠を越えてより広汎な事象に目を向けるようになったということなのですが、ひとつには、単純に技術的ないし経済的な理由、つまり映画やテレビ、より最近ではビデオゲームなどが登場したおかげで、いまやフィクション文化の産業的な中心が言語表現から映像表現に移りつつあるといったようなことがあります。フィクション理論の拡大がそうした文学の地位の相対的な低下に対応していることは否めません──文学部の生き残り戦略みたいなことですよね。ただ、そうしたこととは別に、お話にあったようなグローバリゼーションの問題ということを考えてみますと、小説が文化的生産物として特権的であった時代が18世紀から20世紀であったこと、つまり小説の近代性ということはやはりおおきな問題であるように思います。小説というのは、これまでもたとえばイアン・ワットがブルジョワジーの勃興や近代個人主義との関わりで論じたり、ベネディクト・アンダーソンが国民国家という「想像の共同体」と結びつけて論じたりしてきたわけで、まさしく近代における政治や社会、またその中に生きる個人の姿が読み込まれてゆくジャンルだったと思います。グローバリゼーションをどうとらえるかということにも拠るのですが、もしおっしゃるように国民国家と自律的個人という「幻想」が過去のものとなり、それとは別のところで進行するプロセスが現在問題になりつつあるとするなら、フィクションというものをいちど人間に普遍的な心的能力というレベルにまで還元したうえで、芸術であるとないとに限らず、そのさまざまな文化的・社会的表現を全体的に捉えようとするフィクション論の方向性は、そうした現代的状況と呼応しているのかもしれません。それがどのような具体的な人間的状況にかかわるのかということについては、あまりに大きな問題でとても答えられない、というより、むしろ私としては、まさにそれが何かを理解するために、フィクションを根源的な人間的事象として考えているように思います。あまりお答えになっていなくてすいません。



(注1) シェフェールは、「遊戯的偽装」について次のように述べている。「遊戯的偽装の機能は、想像世界を創造し、受け手がその世界に没入するよう導くことであって、その想像世界が現実世界であると信じさせることではない。それゆえ遊戯的偽装という状況は、本気の偽装という状況とは根本的に異なるのだ。」(ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?──ごっこ遊びからバーチャルリアリティまで』、久保昭博訳、慶應義塾大学出版会、2019年、134頁:以下『なぜフィクションか』と略記する)。また「共有された」という点については次の箇所を参照のこと。「共有された遊戯的偽装という状態は、葛藤的関係よりも相互協力が大きな場を占める社会組織の枠組みにおいてのみ可能である。」(『なぜフィクションか』、141頁)
(注2) リン・ハント『グローバル時代の歴史学』、長谷川貴彦訳、岩波書店、2016年。
(注3) ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』、西永良成訳、集英社、1994年、7-43頁。
(注4) Cf. 『なぜフィクションか』、215頁:「映画フィクションの場合、私は知覚的流れの中に、つまり語の完全な意味での知覚的経験の中に没入する。」



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はじめに――フィクション論の現在──ジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』をめぐって

① 小説論ではないフィクション論
② フィクションと事実の区別
③ フィクションと現実の境界をずらす
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