第3回 無意識と文学③

目次
はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声




③ 想像的なものの現実性

塚本  お二人の講演をうかがっていて、私もあまりにもいろいろな触発を受けて、すぐには頭の中がまとまらないような状態です。具体的にそれぞれ取り上げられた作家に関する質問をお二人に一つずつ、それからちょっと大きい質問をさせていただきます。立木さんはデュラスの『ロル・V・シュタイン歓喜』を取り上げられましたが、選ばれた場面は、作品のかなり後の方に出てくる箇所ですよね。素朴な読者にとって、この作品で強く印象に残るのは、最初の方のロル・V・シュタインが一夜にして恋人を失う場面ではないでしょうか。ロル・V・シュタインの目の前で、婚約者のマイケル・リチャードソンが、舞踏会に現れたアンヌ=マリー・ストレッテルに一目惚れをして、明け方には自分の元から去っていきます。デュラスは小説のなかでこの場面を、「ロル・V・シュタインの映画」と呼んでいます。ロル・V・シュタインは、この映画のような場面で何が起こっているのかを意識することができないまま、その場面を反復するような行動に出る。自分の付き合っている恋人が、自分の前から奪い去られることを進んで求めるということです。この場面について、立木さんはどんな風にお考えですか?

立木  それについてお話すると長くなるのですが……。別のところに書いたことですが、ラカンが『ロル・V・シュタイン』のその場面をどう読んでるかというと、ロルがマイケル・リチャードソンという婚約者をアンヌ=マリー・ストレッテルという年上の女性に奪われたという図式ではないのです。そうではなく、マイケルとアンヌ=マリーがあのまま夜を過ごしていたとすると、その夜の間にアンヌ=マリーの着ているドレスが剥ぎ取られる瞬間があっただろう、そのときドレスの下から現れてくる身体を、ロルはいわば自分の身体として身につけることができたかもしれない……というのがラカンの読みなのです。ロルというのは、かつての親友タティアナが小説のなかではっきりと証言しているように、子供の時から心ここにあらずの状態になること、つまり自分自身を留守にしているような状態になることがよくありました。ロルというのは、身体的な現前が乏しい女性なのです。それは、ラカンによれば──いや、ラカン以前にジャック・ホールドがそのことに気づいているのですが──ロルには自らの身体イメージが欠けているということにほかなりません。いいかえれば、ロルの鏡像段階には何らかの欠陥があった、ということですね。ようするに、少女時代のロルは「自分のイマージュ」というものがない状態でずっと生きてきたのです。しかしその身体イマージュが、マイケル・リチャードソンが剥ぎ取る女のドレスの下から現れる身体のイマージュとして、あの夜にまさに到来しつつあった。ロルはおそらくそれを期待していた。しかしその可能性ごと──夜が明けて、二人がいそいそと立ち去ってしまうときに──ロルは奪われてしまったのだ、というのがラカンの読みなのです。そのあとロルは発狂するわけですが、それはけっして、他の女に許嫁を奪われたからではありません。そういう意味での外傷は、ロルにはないのです。そうではなく、彼女は身体イマージュを奪われてしまった。いや、正確にいえば、自らの身体イマージュとして到来しつつあった別の女の身体イマージュを目にする機会を奪われてしまった。それこそがロルの苦しみの根源なのです。だからこそ、こうして不在のままになった身体イマージュを、ロルはやがて、今度はタチアナの身体で埋め合わせようするわけですね。その試みはそこそこ成功します。ところが、残念なことに、ジャック・ホールドはロルをTビーチの舞踏会(マイケルがロルの眼前でアンヌ=マリーと出会った舞踏会)の会場に連れ戻し、あまつさえ、その夜に彼女と結ばれてしまいます。ロルのように自分の身体イマージュとうまく付き合えていない女性と、そういう形で性関係を結ぶこと、肉体的コンタクトをもつことは、臨床的にはNGと言わざるをえません。実際、ロルは、一時的とはいえ、そのあと再び発狂するわけです。私の考えでは、それとほとんど同じことがサンジェルマン=アン=レのホテルでブルトンとナジャのあいだでも起きたのですが、それは別のところに書いたとおりです。こうして一時的な錯乱に陥ったロルは、どうなるでしょうか。ロルはもはや自分がタチアナなのか、ロルなのかが分からなくなります。それまで、ロルは自らの──不在の──身体イマージュを、ジャックに抱かれるタチアナの身体のそれで代用していたからです。ご存じのとおり、ラカンの「想像界」すなわちl’imaginaireとは、何よりもイマージュの領域という意味です。その意味で、ラカンはロルの狂気をイマジネールの次元で捉えているといえると思います。

塚本  ありがとうございます。それを発展させていくと、これはお二人に共通していたテーマのように思えるのですが、現実に経験したこと以上に、夢幻的なもの、想像的なものの方が遥かに現実的だ、という視点が出てこないでしょうか。すごく大雑把に言うとですね、今のお話でも、ロル・V・シュタインが現実に体験したことそのものよりも、彼女が主体を構成するときに、巻き込まれたある種の構造というか、そちらのほうが現実的であるように思われます。そのように解釈してもよろしいのでしょうか。

立木  ロルに関して現実的なのは、彼女には身体イマージュが不在であるということでしょうね。イマージュそのものは想像的なものですが、その不在は、少なくともロルにおいては、現実的な何かです。そして、自分の身体イメージを確保するためには、もう一人別の女が必要だということ。ロルにとっての現実的なものは、おそらくそこにあります。

塚本  ロルに身体イマージュが到来しないということについて、もっとお聞きしたいのですが、ここで話をメルロ=ポンティに振り向けることにしましょう。具体的な作品を通してということで、廣瀬さんにもおたずねしたいことがあります。メルロ=ポンティが、プルーストの「闇のヴェールに包まれた観念」という言葉についてコメントしていることをご指摘いただきました(注1)。これは、スワンがヴァントゥイユのソナタの小楽節(プティット・フラーズ)を聴く場面に関係していますよね。スワンがその小楽節を聞いたとき、それがはっきりひとつの観念だと認めることができるのに、問題となっているのは闇におおわれた観念であって、何を意味しているかは計り知れない、と小説の語り手は述べています。スワンは、自分が何に誘われているのか分からないけども、とにかく何か遥かなものに誘われていると感じ、それを通して、恋や、絵画など、さまざまなものに感性が開かれていくことになります。メルロ=ポンティはこの言葉をスワンの恋と結びつけるような形で分析しているでしょうか。本質が闇のヴェールに包まれた形でしか現れない、ということだけがここで問題となっているのか、それともプルーストの小説のさまざまな展開について、さらに踏みこんだことを言っているのでしょうか。

廣瀬  プルーストに対する言及っていうのは無際限にあるので、簡単に話すのは難しいのだけれど、プティット・フラーズにおける「イデー(観念)」の間接的現前の話があり、それから他者論で言えば、語り手のアルベルチーヌに対する関係が、スワンの恋を反復するものとして、他者論のモデルになっている。

塚本  そのアルベルチーヌの他者論について、メルロ=ポンティがどのように行なっているのか、短く教えていただけると嬉しいんですが……。

廣瀬  それは『制度化講義』(注2)を簡単に説明せよ、ということになるので……(笑)

塚本  なるほど。複雑な話を短くまとめてくださいという、乱暴なお願いになってしまいますね。

廣瀬  言えることは、まず嫉妬というものが分身の問題と結びつくというのが、精神分析的知見としてもありますよね。分身と自己が二重化した形象が、あるかたちで「凝集」し、それを核として他者との関係がパターン化され、「制度化」される。メルロ=ポンティに「愛の制度化」という主題があります。たとえばプルーストを読むと、要するに嫉妬しかしていない、延々と嫉妬ばっかりしているんだけれども、嫉妬している相手っていうのは、自己の分身ですよね。実際はね。自己の分身との格闘が、自己変容しながら無限に増殖しているようなそういう世界、可能世界の重層性をプルーストは描いている、と。だけれども、それはサルトルが言うように「愛は不可能だ」ってそういうのではなくて、むしろそのような重層性が、間接的な形での、他者との真の結びつきを媒介する。たしかに他者としての他者との出会いは不可能かもしれない。けれども、この他者との絶望的な距離は、むしろ積極的な媒介となる。自己のイマジネールな分身を無限に増殖させる反復のプロセスにおいてこそ、他者との関係の制度化というのもあるんだ、と。もちろんこの反復において、初めの出会いの純粋さには戻ることは出来ないわけで、反復は死ぬまで終わらない。けれどもメルロ=ポンティは、ハイデガーのように、自分の死を特権視しようともしない。だから「象徴的死」は限界概念だということなんです。

塚本  そうすると一人の女性という他者を自分の中に取り込み、その取り込まれた分身にどんどん自分の幻想を投射していくことで、愛がひとつの制度として打ちたてられてゆく、ということでしょうか。出会った女性が現実にどのような人かということとは別に、プルーストの小説の主人公は、自分のなかに取り込んだアルベルチーヌに嫉妬することで、どんどん愛という制度にはまりこんでゆく。その場合、さっきも話題になりましたが、他者はどのような役割を果たしているのでしょうか。自分のなかに取り込まれたものに、さまざまな感情を投射するという、ある意味でひとつの完結した循環がそこにはありますが、そこでは他者がどのような役割を果たしていると、メルロ=ポンティは考えていたのでしょうか。

廣瀬  まず、サルトルが語るような、経験的な他者との相剋関係は、彼の思想の出発点であり、ある意味その前提であるともいえます。メルロ=ポンティはこの「他者」がそもそも他者となっていく発生のプロセスを、自己とのイマジネールな関係から引き出そうとするわけです。だから、ナルシシズムの話ともちろん重なるんですけれども。つまり、先ほどの立木さんのキアスムのお話に戻るのですが、メルロ=ポンティのキアスム論の到達点はもうすこし延長しなくちゃならない。クロード・シモンが描いたような、入れ子状に、合わせ鏡的な世界がまずある。しかし、それだけではない。「脱中心化」というのと関係するのですが、単に入れ子状に悪夢のように取り囲まれているのではなくて、右手と左手の話もそうなんですが、その二つの間にズレがあるんだ、と。

ここしかない、という特権的なズレがあって、このズレにおいてこそ何か統御不可能なことが起きる、あるいは誰かが到来する、という問題があるんですね。つまり合わせ鏡で言えば、どっちかの鏡が微妙に傾いているような、微妙に揺らいでるような、そういう運動がある。そこでこそ他性が自己に感受される。この揺らぎのダイナミズムをそれとして肯定的に語るために、「肉」という言葉が選ばれる。自己と自己との関係に、こっそりと忍び込んでくるからこそ、ますます魅惑的な、潜在的な他者たちとの関係。自己の分身である他者へのメタモルフォーズ……これが「肉」の変容として語られる。超越的な他者なのか、わずかなズレとしての他者なのかという、そういう理論的対立を立てることも出来ますけれども。お答えになったでしょうか。

塚本  ありがとうございます。この「肉」というのが、まさしく素人にとっては難しく、よく解らない考え方です。ごく普通に考えて、ひとが世界を見るとき、身体を通して見るわけですから、単に自分に無関係なものとして、外側から見ているわけではない、目にしているものの質感を、自分の身体感覚を手がかりにして、その内側からも感じているわけですよね。右手と左手の場合であれば、触っているものが触られるものになるという反転が起こることはよく分かります。しかし、世界と私の身体との間では、そのような反転は容易には起こりません。世界を見ながら、質感とか色とかいろいろな感触を感じてはいても、見ているものに完全に同化してそのものになってしまうことは簡単にはできない。メルロ=ポンティが世界の「肉」という言葉で考えていることは、そのよう反転が起こる手前のことで、世界を内側から感じ、ある意味で世界と交わりながら、完全には重ならない、そのようなずれにおいて感じられた世界を意味しているのでしょうか。

廣瀬  そうです。だから、「肉」の概念では、ご指摘のようなシステム論的なダイナミズムをいまひとつ表現しにくいんじゃないかという批判はされたことがあります。だから、ある研究者は「肉」というのは、現象が現象として現れていること、「現象化」することだ、「肉とはフェノメナリザシオンである」って言いました。やはりそういったダイナミズムを入れていかないと、この概念はどうも使えないところが確かにあるんです。




(注1)  M.メルロ=ポンティ『コレージュ・ド・フランス講義草稿 1959-1961』、ステファニー・メセナ編、松葉祥一・廣瀬浩司・加國尚志訳、みすず書房、2019年、233-241頁を参照のこと。「闇のヴェールに包まれた観念」という表現のレフェランスは次の通り。プルースト『失われた時を求めて2 スワン家のほうへⅡ』、吉川一義訳、岩波文庫、2011年、356頁; Proust, À la recherche du temps perdu, t.I, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1987, p.343.
(注2)  Merleau-Ponty, L’institution dans l’histoire personnelle et publique, L’institution ; La Passivité ; Notes de cours au Collège de France (1954-1955), Belin, 2003, p.31-154.



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はじめに――ラカンとメルロ=ポンティ
① ラカンvsメルロ=ポンティ?
② 哲学者と画家
③ 想像的なものの現実性
④ 無意識の表象システム
⑤ 現実とフィクションとの境界
⑥ 哲学と文学、精神分析と文学
⑦ 垂直的な過去
⑧ まなざしと声