第4回 イメージの歴史②

目次
はじめに――イメージの歴史
① アナロジーと「現実」
② イメージを可動的なものと考える
③ イメージと世界の共有
④ イコノファジー――イメージを所有する




② イメージを可動的なものと考える

松井  鈴木先生のご質問の中に、写真と絵画というジャンルの問題が出てきたと思うのですが、これまでお話ししたようなことはジャンルを超えて言えることだと思っています。シルヴァーマンはまた、視覚イメージだけでなくテキストにも同じことが言えるという姿勢を見せています。例えば聖書であれ科学的な著述であれ詩であれ、アナロジー的な要素というのはありますし、イメージを喚起することによって理解を織り込んでいくようなところもあると思うんですね。この意味では、テキストもまた視覚イメージと同様欺くこともできる、ということになります。しかしだからと言って、それらが現実と完全に切り離されるわけではありません。

 もちろんそれらは全て異なるかたちで現実と関わるものです。ただ、例えば絵画は構築されたもので、写真は痕跡であるというように、単純にジャンル別にその性質を定めることもやはりできないと思います。そもそも、同じジャンルの中でも、それぞれの作品の作られ方や、それが現実と結びつく仕方、それが理解される仕方は非常に多様です。彼女は例えば、線描であっても写真が持つようなアナロジーの作用を持ち得るし、物理的接触を介さないという点でインデックス的ではないデジタル写真もまた、同様であると言います。さらには、不在の事物や過去の出来事の痕跡ではない写真イメージ、つまり固定されておらず、見る者との対話の中で、現在という時間の中でこそ現れてくるような写真イメージもある、ということが、シルヴァーマンの議論の核にあります。要するに、作られた段階で写真的か絵画的か、インデックス的なのか構築的なのかが定まるのではなく、見る者との関係性の中で、アナロジーが作動する、ということです。

 シルヴァーマンが写真によるイメージの固定ということを問題にするときにも、やはり同時にイメージの移ろいということが重要な意味を持ってくることになります。それはときに、居心地の悪さや不安をもたらすものですらあります。例えば『アナロジーの奇跡』第5章には、プルーストの『失われた時を求めて』における、マルセルの祖母の写真を撮る場面からの引用があります。そこでマルセルは、自分が全然知らない祖母の顔がカメラに撮られてしまうことに不安を感じて、不機嫌になるんですね。またシルヴァーマンが引用する別の場面では、祖母が部屋の中で本を手にしているのだけれども、視線はどこか宙を浮いている。マルセルはその場面を見て、まったく知らない、品がない鈍重な女性がいると思ってしまう、つまり自分が全然知らない祖母の姿を目にして戸惑うのですが、さらにそこから、知らない人が来てその姿を写真に撮ってしまったらどうしようという恐れを抱くのです。つまり自分がある現実の存在に対して持っていなかったイメージが、他者が撮る写真によって固定されてしまい、人に見られてしまう、そのことを非常に恐れているわけです。それがイメージ化されてしまい、他者に見られることで、自分が所有している以外のイメージがあるということに気づかされてしまう。ここでは、写真によるイメージの固定そのものよりも、他者が介入してくることにより、自分とその現実との関係が変わってしまう、自分が所有していると思っていたイメージが別のものに変容してしまうというところが非常に大きな問題になっているのですね。それはまさに、ウニカ・チュルンの小説において、みずからが所有している写真を兄に見られてしまう、つまりそこに第三者が介入して関係性が変わってしまうという少女の恐れとも似ているように思われます。別の二人称が関与してくることによってイメージと自分との関係が変わっていく、あるいはイメージの向こうにいる現実の存在との関係性が変わってしまうかもしれないという恐れも、シルヴァーマンの示す「アナロジーの奇跡」のうちに含まれている。

 最終的に『失われた時を求めて』のマルセルは、アルベルチーヌを自分が生み出した幻影であると考えることで、その恐れを遮断しようとしたのではないかと、シルヴァーマンは述べています。それでもやはり『失われた時を求めて』のマルセルは、アルベルチーヌから絶えず異なるイメージを受け取ることになるので、つねに不安を抱えることになります。こうした不安に耐えるということも、重要なテーマになってきます。今回はアナロジーの持つ創造的な作用の方をお話ししたので、どちらかというと構築的な可能性みたいなものをアナロジーが引き寄せてしまうように感じられたかもしれませんが、実際には構築することができない、自分の好きなように作り出すことができないことがもたらす不安も、シルヴァーマンは論じています。むしろそれに耐えるということ、目の前のイメージを自由に解釈して別のものに作り変えてしまうことができないもどかしさのようなものも、ジャンルを超えた重要なテーマになってくるのではないでしょうか。

鈴木  ありがとうございました。お答えを聞いていて、やっぱり自分の質問がまずかったなと思いました。もともと松井さんの発表じたい、前半がご自分の仕事である絵画の話をされて、それからシルヴァーマンの話に入っていたわけで、共通性はあるけれども違うんだという話だったわけですから、私の聞き方がまずかったかなと思いましたが、お話は本当によくわかりました。

 ただ、今日は松井さんの一番のご専門であるピカソ以外にもアンドレ・マッソンが大きく扱われていましたが、たとえば20世紀あたりの美術にとって、アナロジーとして捉えることが特別に有効性を持つのかどうかというのは、お聞きしたいなと思いました。どうでしょう、シルヴァーマンのやっているような仕事はもちろんそれ自体として価値がありますが、松井さんが一番深くつき合ってきたようなタイプの作品に対して、それが特に有効性を持つという感覚をお持ちなのでしょうか。

松井  私は最初、イメージの作られ方に興味があったので、研究を始めた当初は、もっぱら構築的な作業を念頭に置きながらピカソの作品を見ていました。例えば前著の『キュビスム芸術史』を書いていた時にも、最初は、ピカソが既存の現実とは違う新たな現実を創作していたのだという見方をしていました。でもそのように理解してしまうと、彼が作品を描くのに現実の物やモデルを必要としていて、抽象主義にも邁進しなかった理由がまったく理解できなくなってしまうと思うに至りました。本を書きながら途中で気づいたのですが、やはりピカソにとっては、現実の生活というものがとても重要で、その中で生きて関わっていく物とか人から受け取るイメージを描くことが始終問題だったのだと思います。そうした中で、アナロジーという作用に興味をもちはじめたのです。

 実際にはピカソは、アナロジーではなくメタファーという言葉を使って、彼が現実から受け取るイメージのあり方を説明しています。20世紀前半に美術の理論的な著述の中で使われていた「造形的メタファー」という言葉には、大きく二つの意味がありました。一方では、具体的な事物を高次の次元へと抽象化し、現実のものとは違うものを作り出す作用としての意味で使われました。とりわけ両大戦間期には、アンドレ・ロートといったキュビスムの画家や、モーリス・レイナルという批評家が、この意味で「造形的メタファー」という語を用いています。これに対する二つ目の使用法は、ピカソがフランソワーズ・ジローという恋人に語った言葉の中に出てくるもので、作品の素材やイメージと現実の事物との意外な結びつきについて言及するものです。

 また《ゲルニカ》のように、実際にあった悲劇をきっかけ描いた、非常によく知られた作品も存在します。こうしたことを踏まえつつ、ピカソは、現実と切り離されたものとして作品を制作していたわけではなくて、作品の制作を通してイメージが現実と切り結ぶような関係について考察していたのだなと考えるようになりました。また彼には、現実の代理表象としての絵画を作り出す技術はありましたが、絵画というのはそういうものではないということも同時に示していくような試みが彼の創造行為の根底にあったと言うことができます。彼は、世界の認識の仕方を探求する手段として芸術作品をとらえていたと考えられるのです。結果的に、ピカソがやったことを丹念に追ってく中で、現実とのアナロジーというテーマに辿り着きました。

 もちろんそこには、シルヴァーマンが写真をベースにしながら論じているようなアナロジーとは異なっているところもあります。シルヴァーマンは主に、自分の前におのずと現れてくるようなイメージについて論じていますが、ピカソの場合には、みずからが構築したイメージと、彼の前におのずと現れてくるイメージとを戯れさせるようなところがあります。この戯れの中から、世界を知覚し認識するということの意味を考えることが、ピカソの創造性には重要な要素として存在していたと言えます。今後の研究では、シルヴァーマン的な意味でのアナロジーの観点から作品分析をしてみたいと思っています。とりわけマッソンの作品はその対象としても面白いのではないかと考え始めており、今日の発表で最後に出した『私の宇宙のアナトミー』の分析は、そのきっかけになればと思っています。

鈴木  どうもありがとうございました。松井さんの今日の発表の基本的なモチーフみたいなことをお話しいただいたと思うので、森元さんからも松井さんの発表へのコメントをもらえたらありがたいのですが、いかがでしょう。

森元  アナロジーをどう捉えたらよいのだろうとはわたくしも思うところで、松井さんも触れていましたけれど、シルヴァーマンがアナロジーを明示的に論じ始めたと思われる『フレッシュ・オブ・マイ・フレッシュ』という別の本を慌ててめくりながら、いまのやりとりをうかがっていました。

 鈴木さんのおっしゃるとおり、アナロジーという言葉からは、ついマクロコスモスとミクロコスモスの照応といったことが思い浮かぶわけですけれど、シルヴァーマン自身、プラトン流のアナロジーにはヒエラルキーが前提されてしまっていて、自分が考えているのはそういうものではない、むしろ、オウィディウスに依拠したいと述べている。いくつかの動機があるようですが、その少なくともひとつとして、オウィディウスが、存在するものはすべて同じものから生まれるのでありながら、そのひとつひとつは互いに異なる多様な現れを示すという考えかたを取ったことが挙げられています。また、自分と自分の関係もアナロジーなのであって、逆にいえば、自分というのも局面ごとにいろいろ異なっているのだともいわれていて、さらにまた、オウィディウスはそうした関係から死をさえ排除していないのだとも。粗雑にまとめれば、水平性、平等性ということがキーなのかと思います。また、『アナロジーの奇跡』第4章に「一種の共和国(A Kind of Republic)」という章がありますけれど、以上が明白に政治的な選択だということは明らかなのでしょう。

 それと、操作可能性を確保したいというような志向があることを感じます。これも鈴木さんがおっしゃったことですけれど、痕跡やインデックスということを言い始めると、何か動かしがたい、もしくはこちらへ迫ってくるような「現実(レエル)」というようなものがつきまとうところがありますが、何とかしてそれをモバイルな、動かせるもの、変化させられるものにしたい、ということがあるのじゃないかしら。それは——これが松井さんの話の基底にあることだと思いましたが——学問的でありながら制作する側の論理、広義のポエティクスに向かうということともつながっていることでしょう。

 ちなみに、さきほど松井さんのお話の直後の質疑で、インデックス、インデックス性との関係でディディ=ユベルマンの名前が挙がったと思います。たしかに、初期のかれは、スタンダードなイコノグラフィーへの抵抗軸としてインデックス的な次元に強くこだわっていました。彼にとってのそれは、どうにも動かせないもの現実というよりは、むしろ精神分析的な徴候や事後性という考えかたをつうじて心的な運動性と結びつけられる面もあったとは思います。ただ、けっこう前からですが、期せずして松井さんと一緒に翻訳することになった本(『受苦の時間を再モンタージュする』)のタイトルにもあるとおり、「モンタージュ」ということが前面に出てくるようになり、イメージを操作することの積極的な側面が強調されるようになったと思います。これもまた、制作者との交流ということが大きいのかもしれません。

鈴木  なるほど。松井さんからはいかがでしょうか。

松井  非常に美しくまとめていただいたと思います。政治的なものが関わってくる、というのは本当にその通りです。共和国というキーワードがシルヴァーマンの本には何度か出てくるのですけれども、彼女は、共和国の住人が平等に結ばれているように、イメージを共有する人々のあいだの関係性だけでなく、イメージ同士のアナロジックな関係性や、そのイメージと現実とのあいだの関係性、オリジナルと複製との関係性、そして写真のネガとポジの関係性もまた、平等なものとして論じていきます。あるイメージから分裂したり、ある現実から派生したりした別のイメージもまた、それぞれ同じく重要な価値を持ったものとして語られるべき、解釈されるべきものとして扱われているのですね。

森元  いうまでもないことなのかもしれないですが、「共和国(republic)」のもともとの語義は「公的なもの(res publica)」です。このときの「もの」というのはおもしろいと思います。ピエール・ルジャンドルの『伝承の計りがたい対象』(未邦訳)に学んだことですけれども、そこでいわれる「もの」は、関係の媒介であり、また関係の推移とともにそれ自体が変化、移動してゆくようなものなのですね。コンフリクトの争点になることもあるし、価値として共有されることもある、つまり、モバイルなものであるわけです。そして、この「もの(res)」から「現実(reality)」という言葉が出てくるわけですが、逆に考えれば、「現実」を可動的なもの、可変的なものとして柔らかく捉えるような視点も、ごく自然に考えてよいわけですよね。

 ふと思い出しますが、このシリーズの第一回、箭内匡さんが『イメージ人類学』というご本のことを中心にお話をされました。箭内さんの主張はとてもラディカルで、石が地面に落ちてくるとする、そのとき、石もイメージ、地面もイメージ、石の裏側もイメージ、石と地面がぶつかることもまたイメージ——だいぶ単純化してしまっているかもしれませんが、ただ、それが還元主義とはまったく別のものを志向していて、現実の複雑さを統合的に見てゆくための道筋なのだと確信されているだろうということが、とても印象的でした。このシリーズが一冊にまとまったとき、松井さんの今日のお話とぜひ読み合わせてみたい、一読者としてそのように思います。



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はじめに――イメージの歴史
① アナロジーと「現実」
② イメージを可動的なものと考える
③ イメージと世界の共有
④ イコノファジー――イメージを所有する