第4回 イメージの歴史④

目次
はじめに――イメージの歴史
① アナロジーと「現実」
② イメージを可動的なものと考える
③ イメージと世界の共有
④ イコノファジー――イメージを所有する




④ イコノファジー――イメージを所有する

鈴木  ここからは少し森元さんのご発表についてお話ししたいと思いますが、まず単純に感想を言わせてもらうと、発表は本当に感動的だったということに尽きます。正直に言うと、私はウニカ・チュルンというのがあまり得意じゃないんです。一方ではたしかにすごく感動的で、私は翻訳でしか読めないけれども、文章がすごいというのは本当につくづく思うし、しかもそのすごい文章について森元さんの名調子で語っていただけて、なんかもう逃げ道がないなっていうような感じのすごさを感じたわけですが、そうすると他方では、もう少し逃げ道があってもいいのではないかと考えてしまうところもあったわけです。

 どう言ったらいいか難しいのですが、さっきの話の中で一目惚れという話がありましたね。イメージがどうしてもそのイメージじゃなきゃいけないものとして降ってくる、そういう一目惚れの体験があるという話だったと思います。ところが、先ほどの話でもちらっとアンドレ・ブルトンという名前が出てきましたけれど、ブルトンが語る恋愛体験というと、どうしてもいわゆる「客観的偶然」の話になって、ブルトンがジャクリーヌ・ランバと出会ってどうのこうのという話になっていくのですが、あれって実は私が思うに、一目惚れじゃなくて、 二回目なんです。二目惚れという言葉があるかどうかわかりませんけれども、前から知っていた人なんですよ。それがあるとき、どうしてもこの人じゃなきゃいけない人になったという話で、そこに何らかの屈折がある気がするのです。イメージが直列でつながっているアナロジーというのとちょっと違う何かが起きているのではないか。なにか屈折が起きていて、今まではこのイメージは何でもなかったのだけれども、それが別なものになるとか、あるいはその逆とか、客観的偶然というのは基本的にはそうした体験だったという感じがするのです。

 ではなぜ屈折が起きたかと考えると難しい話で、塚本さんの話にもあったように、本当は自分の中にあったのに気づかなかったものがある瞬間ぱっと花開いたんだという説明もできるかもしれない。でもそうじゃなくて、それこそあるとき本当に外から何かの力が――「レアリテ」からの力が――やって来て、自分の想像世界が変わってしまったのだ、という説明もできるかもしれない。ブルトンははっきり説明していないのですが、私としては後者の考え方のように、外からの力を強調したい気持ちがあって、強引にそういう主張を展開したのが、実は私の博士論文でした。それがブルトン解釈として正しいかどうかは別として、イメージが何か他の力によって変わってしまう体験というのもありうるのではないか、たとえば一つのイマーゴに捉えられたら絶対にそこから抜け出せないというのだと、ちょっとつらいのではないか、ということを思うのです。やはりウニカ・チュルンを読んでいても、美しいと同時に、一つのイメージに捉えられ続けるのはつらいなと思うのですね。そこからの脱出口として、外からの力によって何かがぱっと変わる、イメージがあるときそうだったものとは別のアナロジーになってしまう、そういう可能性はないのでしょうか。でも、これはもう質問じゃないですね。自分の考えを言っただけですが、なにか森元さんにリアクションしていただけたら嬉しいのですが。

森元  逃げ道がない感じの話にしてしまったというのはおっしゃるとおりです。個人的な経験と結びつく要素もあり、この十年以上、学会発表のようなものとはちがうしかたで、いつかまとまったかたちでお話できないかと考えてきたところがあり、少し前にこの企画にお誘いをいただき、やっぱり、ここしかないかなと、ずいぶんわがままなことをしました。それにしても、一目惚れということのいかんともしがたさを強調しすぎたと思います。本当であれば大切なのは、二度目以降、そこで起きるいろいろな屈折であるにちがいありません。木田元が、むろん九鬼周造などを踏まえつつ、『偶然性と運命』という、端正で風通しのよい本を書いていますけれども、単なる思い込みというのとはまったくちがう、折り返しのしかたというのがあるはずです。なにもかも偶然もといえばそれは嘘だし、なにもかも運命といってももちろん嘘だし、また、偶然をあとになって美しい運命へとでっちあげているのだ、というようなことでもむろんない。そうではない繊細な関係のことを考えねばならないと思いつつ、今回、チュルンのテクストの魔術的な力に寄りかかってしまいました。

鈴木  いやいや、本当に感動的なお話でした。では塚本さん、森元さんの発表に関してコメントなどあったらお願いします。

塚本  先ほどイメージは、何ものかとの関係だという話がでました。ではウニカ・チュルンの場合、イメージは何と関係しているのかという点から森元さんのお話をうかがっていると、それは何よりも見えないものとの関係ということになりますよね。ウニカ・チュルンの小説が語る少女は、もちろん目に見える男性に思いを寄せるのですが、実際には彼女は目に見えない、何か絶対的な愛の対象を求めている。完全に所有したい、完全に自分のものとしたい、そのためのイメージを食べてしまうわけですが、森元さんのお話をうかがっていて連想したのは、むしろその物質的な身振りというより、マリー=ジョゼ・モンザンがイコン論で語っているようなイメージのあり方です。

 森元さんがお話になったのは、イコンの表面を削って食べるっていう極端な信仰の仕方で神をみずからのうちに取り込もうとするという修道僧たちのことでしたけれども、モンザンの語るところによれば、イコンは目に見えている像を見せているわけじゃない、見えない絶対的なものに通じる通路というか、それを通して見えないものに至ることができる通路を示している、ということになります。

 だから目に見える視覚的な像が問題なんじゃなくて、それを通して見えない絶対的な神に至る道筋があるということそのものを示しているとモンザンは指摘しています。それをエコノミーっと言っていますけど、エコノミーって中世の特別な用語では「神の救いの営み」と訳されているようですが、その見えない神に至る道筋があることをイコンが示している。だから、そこにある像そのものが問題ではないということなんですね。

 それと、表面を削り取って完全に物理的に自分のものにしたいっていう欲望は、対照的に見えて以外に通じているように思えるんですけども、やっぱり違う話なのでしょうか?

森元  モンザンのことは話題になるかなと予期したところもありますけれども、やはり、同じ話というふうにはなりにくいのではないでしょうか。キリスト教の公式的なドクトリンは、イコンやイメージを一種のデヴァイスのようなものへ切り詰めるところがありますよね。目印みたいなもので、それに礼拝すると神に礼拝したことになる。そうやって、偶像崇拝の禁止というドグマとの整合性を保ったわけです。逆に、表面を削ったりすると、その絵がそれ自体としてたしかに現前しているということが浮き彫りにされてしまう。キリスト教の歴史には「非合理的なもの」との闘いの歴史という一側面があると思いますが、イコンを削って摂取したりしてはいけない、とわざわざ教えることも、物質的なものの取り込みが予期せぬ効果を生み出すことへの忌避を示しているといえるのでしょう。

 モンザンにも、元来はそうした曖昧な局面への関心があったと思いますが、最終的な立場は、イコン論争におけるオーソドキシーを引き継ぐような立場を取った気がします。今日の世界におけるイメージのありようをあつかった著作では、イメージは本質的に危険であり——だから魅力的であるということは当然ながら忘れないのだとしても——やはり適切な距離を取ること、適度に枠づけすることが大切だというようなことを述べている。イメージの統御ということを考えている感じがします(それと同じではないけれど、存在論におけるさまざまに偶像礼拝的な傾向を問うというしかたでデビューしたジャン=リュック・マリオンも、やはりイコン論争を明示的に参照しています)。『暗い春』は、それ自体たしかに出口のないような話であるかもしれませんが、そうした機制を突き抜けるようなシンギュラーな事例というように思われ、それでお話をしたいと考えたのでした。

塚本  ありがとうございます。モンザンの論をどんな風に受けとめていらっしゃるのか、非常によくわかりました。もう一つ、なんの話をきっかけにこう思ったのかちょっと思い出せずにいるのですが、いろいろなものをある別の形に置換して目に見えるようにするというプロセスにも興味を惹かれました。チュルンの小説に出てくる少女にとって、ひとつの見えるものが全く別の物に変わっていくわけで、恋する相手を写真だけでなく、一本の髪の毛、食べて吐き出した桃の種に置き換えていく──そういうお話をうかがっていて思ったのは、イメージのもつ本質的に別のものに置き換わっていくという力の働き方です。次々に置き換わっていき、しかもその置換の元にあるものを完全に見ることができない、把握することもできないっていう側面がイメージにはあるように思いました。

 ブルトンの場合、ナジャからシュザンヌ・ミュザール、ジャクリーヌ・ランバまで、同じ一つの愛が別のものに置き換わっていくプロセスがある。ブルトンだけではなくてネルヴァルも「シルヴィー」の中で、同じ一つの崇拝の対象が別のものに置き換わっていく過程をたどってゆく。そういうダイナミズムについて、森元さんはどのようにお考えでしょうか……

森元 おっしゃるとおりで、チュルンの作品にもそうした側面があること——少女にとっての父親、夢想のなかの殺人者、異邦の男という連鎖は明示的に語られています——をもっと強調することもできたはずです。それと関連しながら、精神分析とのリンクを考えておきながら、うまく展開できなかったということもあります。異性愛的な関係に即した物言いになりますが、ある男性からするとき、女性が目標である、でも具体的な対象はどんどん移ろってゆくということがある。同じことの繰り返し、という以前に単に馬鹿みたいといわれるのでしょうけれど、その馬鹿馬鹿しさが生きているということそのものであったりもする。変わらないことが変わってゆくことよりも頑としてよい、正しいということでもないでしょう。うまく展開できませんが、目標と対象が異なるというのは、一面ではそれなりに自由度を高めてくれる考え方であるのかもしれず、さきほどアナロジーについてお話ししたような可変性、可動性のようなこととも遠くからリンクするように思います。

鈴木  参加していただいた皆さんからもぜひ質問してほしいのですが。

塚本  塩塚さんにコメントを求めましょうよ。

塩塚  いろいろなことを考えさせられる発表でした。なによりもまず味わいぶかいお話を紹介していただきとてもありがたく思っています。

 イメージと言うと不在を喚起するというのが通念だと思います。このお話の中の小さな肖像は、街中で写すような証明写真みたいなものでしょうか。生きている人の写真が欲しいというので、その場で撮るのかと思ったらそうではないんですね。女の子だからカメラも持ってないし、急に言われたからというわけで、前に撮った写真を渡されている。そういう意味で特異だと思ったのは、そうやって大事にしている写真の被写体がまだ生きているっていう事ですね。僕が親しんでいるペレックやモディアノなどでは、写真というのは全部失われたものの痕跡であるわけなので。

 あの写真を消去してもインデックスとしての対象はずっと存在し続けている。そして、生きている人間の写真を大事に持ち帰って、それを食べてしまう。どうして食べちゃうのかっていうことについてはいろいろなことが考えられそうですが、物語に則してしてみるなら、あの写真がもし大人に見つかったら自分の恋情を見抜かれてしまうという心配があったのだろうと思います。相手の、というより、自分の痕跡を残してしまうことが嫌だったのではないでしょうか。

 だから、写真を食べるということは自分の痕跡を消す行為だったのかもしれません。そうすると松井さんの話とちょっとつながるかもしれませんが、写っているのは男の人の写真だけど意味したり喚起しているものは、結局少女なんだっていうことになっている。そういう意味で、何かお二人の話がつながった気がして非常に感動しました。

森元  自身の痕跡を消すという面があるのは本当ですね。ベタな話に落ちてしまいますが、写真を飲み込むって現実ではどのようにありうるのだろうと思って、今回、新聞記事など検索してみました。ひとつ、前後の文脈もよくわからない断片的な書き込みだったので、あくまで参考までにと思いますが、パルチザンだったひとの回想で、何かの折に憲兵が近づいて来て身元が割れてしまいそうだというので、慌てて写真を飲み込んだという話が出てきました。あたりまえですけれども、緊急避難的な身ぶり、ということは確実にいえるでしょう。ただ、それが他人の写真であるけれども、本質的には自分のアイデンティティにこそ関わっているというケースを十分に考察する準備が足りていないと痛感しました。他者を食べること、それからおそらくメランコリーの問題、そこから抜け出そうとして、死んでしまうのだけれども、少なくとも『暗い春』ではそれが別の生の通路のようなものをたしかに描き出していること。やはり精神分析に学びつつ、もっと考えるべきことがらでした。

鈴木  松井さん、森元さん、長時間にわたって本当にどうもありがとうございました。



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はじめに――イメージの歴史
① アナロジーと「現実」
② イメージを可動的なものと考える
③ イメージと世界の共有
④ イコノファジー――イメージを所有する