第4回 イメージの歴史③

目次
はじめに――イメージの歴史
① アナロジーと「現実」
② イメージを可動的なものと考える
③ イメージと世界の共有
④ イコノファジー――イメージを所有する




③ イメージと世界の共有

鈴木  ありがとうございます。私も先ほど松井さんのお話を聞きながら、第1回目のワークショップで出てきたイメージの話が頭に浮かびました。松井さんの発表から出発してアナロジーについての議論が展開しているわけですが、塚本さん、松井さんの発表について何かコメントがあればお願いできますか。

塚本  はい。実際におうかがいするまでは、今日、いったいどのようなお話になるのかまったく分かりませんでした。お二人の話をおうかがいし、また鈴木さんのさまざまな指摘に対するお二人の回答を聞いていて、いまはイメージに関する具体的な論点がはっきり見えてきました。とりわけ問題となったのは、イメージが一方では具体的なモノでありながら、他方では何ものかとの関係であるということではないでしょうか。お二人ともイメージを、何かと関係するものと捉えなおしていらっしゃる。では、イメージが何かとの関係だとすると、いったい何と関係するのか、またその関係の仕方はどのようなものなのか、ということをお二人はそれぞれの視点から論じられていると思いました。

 写真というイメージの場合、今まではもっぱらインデックスという特性が強調されていて、写真イメージはそこに写されながらその場にはいない不在の対象を指し示しているという、すごく固定された見方が大勢を占めていました。けれども、松井さんはアナロジーというキーワードを通して、イメージが実際にはもっと多様なものと関係し合っていることを強調し、そこに現れているイメージの構築的な側面について扱われていたと思います。その際ですね、撮影する人間の意志とはある程度まで関わりなく、おのずから形成される部分があるという写真の性質を問題にしていることが印象的でした。おのずから形成されるこの過程は、イメージというもののなかにもっと一般的な形で存在していて、人間の主体に関わりなくイメージが形成されていくというプロセスがある。松井さんはアナロジーというものを、このおのずから形成する力という視点から、多様な関係を作りだす力として捉えなおしていたと思うんです。アナロジーの力によって、それまで無関係と思われていたものが結びつき、新たなイメージが形成されてゆく。

 では、そのアナロジーのもつ構築する力に、現実がどのように絡んでくるのか、というのが鈴木雅雄さんからの質問だったと思います。いろいろなものが多様な仕方で関係しあうというとき、そこにある種の制限というか束縛というか、そういう力がかかってくるのではないか。そこにアナロジーの構築力を縛り、制限するという形で、現実が関わってきていると言えるのではないか。

 これに関連して、あまり話題とはなりませんでしたが、シルヴァーマンの本の第5章で、サルトルが『存在と無』のなかで述べている例が引用されている箇所があります。公園に入って一人で芝生の緑を見ていると、ただ一人でいる時には、完全に一つのパースペクティブから芝生の緑がどのようなものかが見えている。ところが、そこに別の人間が入ってくると、そのパースペクティブが崩れてしまう。その人から見た芝生の緑がどのようなものであるのかわからないために、ある種の惑乱が生じるというのです。

 それに対して、メルロ=ポンティがそうじゃないんだと反論しています。もしその時、入ってきた他人に、彼が公園の芝生の緑をどのように見ているのかを話してもらえば、最初に芝生を見ていた人間は、自分の見ている芝生の緑のイメージの知覚を保ったまま、他人の見ている、自分とは異なった緑も見ることができるようになる、つまり「地平線を共有できる」ようになると、メルロ=ポンティは指摘します。このように異なった人間がまったく違った形で見ているかもしれないけれども、地平線を共有できるものにおたがい面している、そういう感触をあたえるものとして、現実というものを考えることができるのではないでしょうか。異なった視野の共有ということが起こるために、誰もが勝手な思い込みで勝手に結びつけた世界をアナロジーで構築していくなんていうことは起こらなくて、何か言葉を通して別の角度から見えてくるものを共有するということが可能となる。だからイメージは、それだけで何ものかと関係し、アナロジーによって多様な関係を作りだすことができるとしても、そこに言葉が絡んでくることで一定の歯止めがかかってくる。

 そこには、ある種のフィクションのあり方が絡んでくるのかもしれません。イメージが形成されてゆく過程、そして相互に見えてくる世界によって多重化してゆくイメージ形成の過程に言葉が絡んでくるということは、そこでは現実そのものが問題になっているというより、言葉を通して見えてくる世界が問題となっているということだからです。言葉を通して、異なった人間が違ったビジョンを保ったまま何かを共有するという、この地平線の共有という現象に、シルヴァーマンは注目しているようなのですが、これについてさらに論を展開しているのでしょうか。

松井  まさにおっしゃっていただいた通り、アナロジックなイメージと現実の共有というテーマもシルヴァーマンの議論の核にあります。さきほど森元さんがおっしゃってくださったことにもつながるのですが、他者と何かを共有するとはどういうことなのかという問題がそこにあると言えます。イメージを他者と共有することによって、イメージそのものが別物になってしまう、現実と思っていたものが別のものとして見えしまうのですが、サルトルは『存在と無』では、そうした考察から、自己もまた他者により見られる存在であることに思い至る人の話をしています。メルロ=ポンティは同じことを考えたときに、対話の中で言語を用いて、それぞれの見えているものを描写することで、目の前の、「私」個人にしか属していなかった緑が、「私」の視覚を離れずに相手の視覚に侵入するのだ、という考察を導き出しています。彼はそこから、二人の人間が共有しうる「視覚一般」といったものに考えを巡らせることになるわけです。

 ただ、言葉の介在なしに現実の共有が不可能かというと、『アナロジーの奇跡』の全体の主張を踏まえれば、シルヴァーマンはむしろイメージそのものにもそのような力がある、という逆のことを言おうとしています。イメージは、現実と結ぶアナロジックな関係性の中で、現実に存在する「世界」の存在について見る者に提示しているわけで、あとはイメージが示してくれているものを見る者が受け取れるかどうかにかかっている、というわけです。発表の中でお話ししたことですが、カメラ・オブスクラの起源においてイメージが「撮る」(take)ものではなく「受け取る」(receive)ものとして表現されていたという点にも、このことは繋がってきます。

 シルヴァーマンは、『アナロジーの奇跡』より前に執筆した『世界の観客』という本の中で、イメージが持つこの力について、アーレントとハイデガーの「現れ」の概念を起点にしながら論じています。『世界の観客』というタイトルそのものも、アーレントの講義録からとられた言葉で、世界の中で存在がみずからの「現れ」を示しながら、知覚されつつ知覚する、そのような世界の「観客」としての存在を示す概念になります。アーレントは、世界が各人に異なったかたちで開かれていて、そのことで「私にはこう見える」という「億見」(ドクサ)が生まれてくるのだと考えていました。ただし、アーレントにとって億見を共有する媒介となるのは言語だったわけですが、シルヴァーマンは、『世界の観客』の中ではっきりと、イメージもまたそのような力を持つのだと主張しています。

 シルヴァーマンがイメージの作用において問題にしているのは、世界と自己とのあいだを媒介する機能だけではなくて、現実のイメージを共有する多くの構成員によるネットワークの中で、共有するというその行為によって移ろっていく側面です。それぞれのイメージが示しているのは同じ現実なのに、それが同じ世界に住む構成員により共有されることで、世界がもともと自分に対して与えていた一面とは違うイメージが浮き彫りになってくるという現象です。そのことによって世界そのものが新たに作り変えられていくということではなく、むしろ現実世界がもともと持っていた何かしらのダイナミックな諸層というものが、見えてくるということでしょうか。

 ちょっと変な喩えかもしれないのですが、たとえばある人の足跡があって、それがこの個人の足跡でしかないっていうのが痕跡だとすれば、その足跡を私の手形として解釈して作り直してもいいじゃないかっていう、もうひとつの構築派の考えがある。しかしこの足跡から、その足跡の持ち主の手について考え、その人の存在について考え、それを他者と共有する中で、それまで考えもしなかったその人の別の側面が見えてくる、あるいはその足跡が関わる現実世界の別の側面があらわになる、そんな可能性を、イメージが拓くのだという考え方なのだと思います。その中で足跡のイメージは、もはや過去の痕跡としての意味を超えて、現在という時間に現れ対話相手となる二人称の「あなた」になる、ということではないでしょうか。

塚本  ありがとうございます。最後におっしゃった、痕跡をそれが連想させるものに送り返そうとするのか、それともまったく異なる別のものと結びつけようとするかという話は、シルヴァーマンが詳しく分析しているプルーストの小説の中にもあると思うのですね。

 プルーストのなかにあるアナロジー、ドゥルーズが『プルーストとシーニュ』のなかで指摘しているアナロジーには二つの種類があります。ひとつは含み含まれるっていう関係の仕方で、紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ瞬間に自分の中にあることを忘れていたコンブレーでの幼年時代がまるで水中花を水の中に入れたようにぱあっと広がっていったという逸話がありますね。自分のなかに含まれているけども知らなかったものが広がっていくっていう形でのアナロジーの展開があるというのです。

 もうひとつには全体と部分というちょっと分かりづらい言い方をしていますけど、メゼグリーズの方とゲルマントの方というまったく通じないと思われる二つの方向があって、それがしばらくしばらくたってからスワンとオデットの娘ジルベルトと、ゲルマントの息子サン=ルーの二人の間に生まれた子供として、語り手の目の前に現れることになります。この女の子の存在は、まったく通じていないと思っていたすごく離れた二つのものを横断する線があることを示しています。アナロジーの中には、無関係に思えた二つのものを結びつける力もあるということです。ドゥルーズ自身はさらに論を展開しているのですが、ここでは通じていないと思われていたものが結びつける横断線があるという視点だけに注目してみましょう。

 シルヴァーマン自身、アナロジーはまず似ていなければ成り立たないことだけど、同時にものすごく異なっていることもありえるということを強調しているように思えます。ドゥルーズの言うアナロジーの二つの側面と関連づけることはできないでしょうか。通底する部分があって、響きあう二つのものを結びつける働きと、まったく結びつかないように思える別のものと結びつける働きという二つの側面がシルヴァーマンの言うアナロジーにはある──松井さんの話をそういう風にも受けとめることができように思えるのですが、いかがでしょうか。

松井  ありがとうございます。まさにおっしゃっていただいた通りだと思います。プルーストの小説の中で問題にされているのは、記憶の中でも意識されているものがごく一部でしかなくて、それがその都度自分でも予期せぬかたちでふと出てくることがあるという現象です。それは存在しないものを新たに作り出しているというわけではなくて、むしろ貯蔵庫のように無意識にストックされていたものが浮かび上がってくるものなんだっていう説明がされているんですね。

 メゼグリーズの方とゲルマントという、『失われた時を求めて』のなかのまったく異なる巻の話が、最終的にひとつの場面で出会うということについてもやはり、一見すると似てはいないけれども、しかし虚構的な結びつきではなく、二つの巻における登場人物である二人のあいだの子供という、きわめて具体的な存在を起点にした結びつきになっています。それはマルセルが考えてもみなかった意外な結びつき、塚本先生がおっしゃるように、マルセルの内側にあるアナロジーではなく、外部の世界からもたらされる結びつきでした。いずれにせよ、繰り返しになりますが、ここでもやはり現実となんらかのかたちで結びつくアナロジーがあり、そのことによって世界や自分自身の新たな面を知るということが、重要なテーマとして出てきているのだと思います。あるものと別のものを近づけようとする人間の意志が介在していなくても、あるいはそれが一目見てそれとわかるようには示されていなくても、世界の中にはすでに色々なアナロジーが潜んでいて、それがある瞬間にふと現れてくる、そのようなあり方を、シルヴァーマンは考えているように思われます。こうした意味で、シルヴァーマンが論じているところの、共和国の住人が共有する現実のイメージとは、それぞれに異なる幻想を限りなく一致させたものというよりは、世界の様々な現れの交差のなかから生まれて、世界そのものが移ろいゆくにつれて動いていくものであると言うことができると思います。

塚本  ここでやっぱり現実とフィクションを厳しく分けている久保さんにお話をうかがうのはどうでしょう。

鈴木  久保さん、いかがでしょうか。

久保  私自身は全然現実とフィクションをわけているのではなく、むしろ逆の立場です。いま問題になっているイメージやアナロジーのことはひとまずおいて、まずは以前にこの研究会でご紹介したシェフェールやジュネットのフィクション理論の基本的立場を改めて確認しておくと、フィクションは現実の一部であるということになると思います。これは実に単純な話で、我々が生きている現実の中には、小説からアニメやゲームにいたるまでさまざまなフィクションが存在しているということです。

 もう少し言えば、フィクションの対概念は「リアル=現実」ではなく「ファクト=事実」であるということが、サールの語用論をベースにしたシェフェールらのフィクション理論の肝心なところです。フィクションの境界が問題になるとすれば、それはフィクション的表象と事実的表象の間において、ということになります。フィクション的表象とは、「これは現実である」という社会的な約束事にコミットしないことが発信者と受信者のあいだで了解されている表象、事実的表象とは、虚偽や錯誤も含め、そうした現実性へのコミットメントが志向されている表象です。こうした境界は、社会的・文化的なものであるがゆえに相対的なものでありうる。だからこそ、たとえば宗教的な表象や言説の事実性ないしは虚構性というステイタスが問題になるわけです。シェフェールなどのフィクション理論は、こうした観点──つまりは虚構性を遊戯性と重ね合わせる観点──からフィクションの独自の認識作用を理解しようとするものであると言えるでしょう。簡単にまとめるなら、虚構的なものと事実的なものの相互作用が「現実」を構成するというのが、少なくとも私の理解するフィクション理論の考え方であって、こうしてみると、フィクションというのは、さきほどの森元さんのコメントでも言われていましたが、むしろ現実をより可変的、あるいはモバイルなものとして認識することにつながっていくのではないかと考えています。もちろん、イメージやアナロジーの問題をフィクション理論の観点から考えるということであれば、表象とその指示対象の関係を問う意味論的な議論なども視野に入ってくるかとは思いますが。

塚本  どうもありがとうございます。



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② イメージを可動的なものと考える
③ イメージと世界の共有
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