第4回 イメージの歴史①

目次
はじめに――イメージの歴史
① アナロジーと「現実」
② イメージを可動的なものと考える
③ イメージと世界の共有
④ イコノファジー――イメージを所有する




① アナロジーと「現実」

鈴木  お二人どちらのお話からも、イメージのもつ力というのを感じたわけですが、それにもかかわらず正反対の部分もあって、そこが非常に刺激的でした。まず前提として、イメージというものが、本物に対する偽物とかではなくて、それとはまったく別の力をもったものだという考え方があると思います。そういうものとしてのイメージが対象や世界と、「表象する」というのとは違う形でつながるというあり方が問題になっていたと思うのですが、シルヴァーマンの場合にはそれをアナロジーという言葉で言っているわけですね。ただこういうイメージの特殊なあり方を考えていくと、他方でそれがいわゆる「現実」とどう関係しているかということも問題になる気がします。もちろんシルヴァーマンがそうだというわけではありませんが、イメージが次々にいろいろなものとつながっていくあり方を強調していくと、「現実」を見失った話だという批判をされそうな心配もあるわけです。実際、森元さんが扱われたウニカ・チュルンの小説の少女などは、まさに「現実」を見失っているというふうに形容されそうなあり方にも見えるし、とはいえそういう言い方もあまりに常識的すぎる気がして、なかなか微妙ではあるのですが……

 とにかくまず問題にしたいのは、今日お二人が話してくれたイメージの問題のなかで、「現実」にどのような位置を与えればいいかということです。というのも、実はこのワークショップのシリーズを進めるなかで、現実とフィクションの関係というテーマが自然に生まれてきました。現実とは何かという問題は、フィクション論のとき(第二回)から議論されてきています。さらにいうと、実は今、松井さんはレアリスムをテーマにした論集を計画されていて、私も参加させてもらう予定なんですね。だから余計に松井さんを前にすると、「現実」とは何かということを考えなくてはいけない気がしてくるわけです。

 以上を前置きにして、まずはシルヴァーマンのアナロジーという発想についてお聞きします。本当にいろいろ刺激を受けながら聞いていたのですが、ただ私の頭の中ではっきり整理されていないのは、写真においてアナロジーを語るとして、それはたとえば絵画について語れるアナロジーとどのように違うのだろうかという点です。「現実」を特別なものとして位置づけるのではなくて、いろいろなものがつながっていくというあり方を強調していくと、絵画でも同じ構造になっているのではないかと思ってしまうところがあるわけです。すこし文脈が違うかもしれませんが、よく取り上げられるレフ・マノヴィッチの議論で、今までアニメーションを映画の一部と思ってきたけれど、実は映画の方がアニメーションの一部なのだという考え方がありますね。そういう意味ではこのアナロジーという問題も、写真は絵画の一部なのだという話につながる可能性だって、もしかしたらあるかもしれないと思ったりしました。もちろん写真と絵画を区別しなくていいという考え方もあるでしょうが、ともかくシルヴァーマンの論理の中では、そのアナロジーというのがやはり写真について言われているとすると、絵画におけるアナロジーとはどう違うのかというようなことを、まずは質問してみたいと思いました。

 これは当然、「現実」をどう捉えるかという問題でもあります。たしかに写真をインデックスだと考えれば、そこに現実があるということは言いやすい。先ほどの話でもクラウスの名前がちらっと出てきましたね。クラウスはシュルレアリスムの写真について、それは現実を記号へと痙攣させるという言い方をしていますが、その前提は、写真はインデックスだという発想なわけで、だからこそ写真を使うことで現実を痙攣させられるという論理になっているはずです。その話がクラウスの場合は、アンフォルム(不定形)の問題にもつながっていくと思いますが、やはり不定形というのも特殊な意味での「現実的なもの」でしょう。「現実」というのは不定形なもので、イメージによっては捉えられないという論理になっている。アンフォルムの話ですからもちろんバタイユから来ている発想ですが、バタイユで問題になっているのもイメージでは捉えられない「現実」、不可能なものとしての「現実」であって、そこにバタイユ的なレアリスムがあるというドゥニ・オリエなどの言い方は、わりと広く受け入れられている発想だと感じます。

 インデックスという考え方を乗り越えたいというのは、私などもすごくよくわかる気がするのですが、どうしてインデックスという言葉が使われ、またその問題がどんな風に展開されてきたかを考えていくと、なかなかこの「レエル」という水準を簡単に外して考えることはできない気もします。お話しいただいたアナロジーの論理のなかで、「レアリテ」と言ったらいいのか、「レエル」と言ったらいいのかわかりませんが、それをどこに位置づけたらいいのか、どう整理したら話が分かりやすくなるだろうかと考えていました。

 そういうわけで、もしよければ「レアリテ」、「現実」というものをどのように位置づけるか、またそのことと関連して、写真におけるアナロジーと絵画におけるアナロジーが違うとしたら、どういうことが違うと言えるのか、あるいは違わないのか、というのをお聞きしたいと思います。松井さん、いかがでしょう。

松井  森元さんのご発表後のディスカッションに、イメージが人を欺く可能性があるという話が出てきましたね。アナロジーについても同様に、現実から遠ざかるアナロジー、現実へと近づくアナロジーがあると考えることができると思います。ただ、今日ご紹介したシルヴァーマンの議論においては、アナロジーの横溢の中で、現実というものを完全に度外視していろいろな事物を結びつけることが語られているのかと言うと、そうではありません。

 ここで、シルヴァーマンが扱っているテーマの中でも、人称性ということについて立ち戻ってみたいと思います。彼女の議論の中では、一人称がある対象を見るときに、それを三人称として捉えるのか、二人称としてとらえるのかということが非常に重要な問題になってくるんですね。『アナロジーの奇跡』は、「写真の歴史パート1」という副題がついていて、そのパート2にあたる著書The Three-Personed Picture(スタンフォード大学出版より近刊予定)は、作者の問題と絡めて三人称的なイメージをテーマに扱うもののようです。これに対し、現在翻訳させていただいている『アナロジーの奇跡』では、一貫して、一人称と二人称の関係として、現実とイメージ、イメージと観者の関係が捉えられています。なぜ一人称と二人称の関係が重要な問題となるのかというと、自分が相手に対して呼びかけることができるような関係がそこにあり、その関係の中では相手もまた自分を認識できるからです。そしてその相手もみずからのことを「私」と一人称で語る権利があると認めることができるような関係がそこにあるわけです。それをシルヴァーマンは、写真のネガとポジの関係にたとえ、「反転可能」な関係性として論じています。

 直感的に言えばそれは、美術史家が作品に対して持っている関係と非常に近いように感じています。歴史を語るにはある程度解釈をすることが必要ですが、しかし歴史家である以上は、どんな自由な解釈も可能である、つまり解釈することで新しい作品を作り直しているというようには考えないものです。そこに自分とは違う別の存在としての作品があり、それを解釈したからといって決してそれを所有できるわけではない。だからこそ目の前にあるイメージと対話をしていく際に、必ずしもそれをすべて把握することはできないにせよ、なんとか相手を理解しようとしていく、そこには自分とは異なる世界や存在があるという意識で対話を重ねていくことになります。

 例えば、目の前に王の肖像画があるとします。非常に単純な読みだと、王の肖像は特定の人物とその王権を示している、という話で終わります。それは実在の人物の代理表象であり、またその人物が実際に持っていた王権を示す証拠となるわけです。しかし美術史家として絵に向かうと、肖像画のイメージが構築されるような出来事や社会構造があり、それらとどのように関わりながら特定のイメージが生まれたのかを考えることになります。そうした作業の中では、絵は、現実の存在と完全に切り離されるものではなく、しかし同時に現実と同一のものでもないようなものとして立ち現れてくることになります。モデル、作者、注文主、素材やその調達方法といったレベルから、そうしたものが関わっていたさまざまな心理や思想、システムといったレベルまで、作品を取り巻く現実を知ること、そしてそうした現実から生み出されたイメージそのものについて知ること、この二重の作業の往復の中で考えていくことになるので、イメージは、現実と一対一の関係を結ぶようなものではなく、レイヤー状になった現実の複数の層の中で考えるべきものとして立ち現れることになります。逆に、たとえそれが虚構として構築された、実在しない王の姿であったとしても、やはり何らかのかたちで特定の現実と関わり生まれてきたイメージであることに違いありません。だからこそある作品について研究していると、一見それとは無関係だと思っていた意外な現実との結びつきが現れてくることがあります。

 だから美術史家にとっての作品は、現実に対する他者として現れてくるのであり、また美術史家自身にとっても他者として関わってくるわけですが、しかし同時にそれらと一人称と二人称の関係を結び得るものなの、つまり対話可能なものとしても現れてくるように思われます。イメージは現実と、またそれを見る私たちと「私」と「あなた」の関係を結ぶ中で、何かしらのことを私に語りかけてくる。そうした中で、「私」に対する「あなた」である現実の人や事物もまた、「私」という人称を持ちうる可能性、「私」がそれを、本当は不可能なことではあるのですが、まるで「私」のことのように理解する可能性をひらいてくれる。作品を見ているときに、自分が完全に思い通りにはできない存在、それでも「あなた」と呼びかけ対話することが可能であるような存在を目の前にしているような気持ちになるのは、このことと関係しているのかもしれません。そうした存在としてのイメージと対話することで、芸術作品は、自分が見ている現実とは異なる現実のあり方をも共有させてくれるものとして、私たちの前に現れてくることになるのだと思います。



目次
はじめに――イメージの歴史
① アナロジーと「現実」
② イメージを可動的なものと考える
③ イメージと世界の共有
④ イコノファジー――イメージを所有する